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ゾロアスター教


 古代ペルシャに生まれた世界最古の宗教のひとつ。
 創始者はザラスシュトラ(ギリシャではゾロアスターとよばれた)で、聖典はアベスターである。
 その誕生の時期ははっきりしないが、現代の研究ではBC1500年〜BC1000年ころではないかとみられている。

 ゾロアスター教は、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教・仏教に影響を与えた。(天国と地獄、善と悪の双子の霊、悪魔、死後の生、将来の救世主、世界の最後の更新、永遠の生命など。)

 現在の信者数は正確にはわかっていないが、20万人以下とみられる。
  ・イラン   2万〜3万5千人か?
  ・インド   約10万人
  ・パキスタン 7千〜8千人
  ・北米    1万〜2万人

  参 考

アブラハム   BC1600 〜 BC1300年 ころ  ユダヤ教   
モーゼ          〃          〃     
ザラスシュトラ BC1500 〜 BC1100年 ころ  ゾロアスター教
釈迦      BC 565 〜 BC 485年 ころ  仏教     
イエス     BC  7 〜 AD 30年 ころ  キリスト教  
ムハンマド   AD 570 〜 AD 632年 ころ  イスラム教  

  (「シリーズ世界の宗教 ゾロアスター教」P.R.ハーツ著から引用。異説あり。)



【教義】
 ゾロアスター教が誕生したころは多数の神が信仰されていたが、アフラ・マズダー(「賢明なる神」の意)だけが唯一の至上の神であると説いた。儀礼や生贄(いけにえ)よりも日常の生活でどのような行動をするかが重要であるとした。
 アフラ・マズダーは、この宇宙とそこに存在するすべてを創造したとする。アフラ・マズダーは全知であり、完善であり、真実と善良の生みの親であり、愛と福をもたらすとする。
 この世界には双子の霊(真理の霊であるスプンタ・マンユと、虚偽の霊であるアンラ・マンユ(あるいはアフレマン))があり、互いに対立しているとされる。アフラ・マズダーは、人間に自由意志を与えた。人間は自ら思惟し判断しなければならない。邪悪を退け善良を選ぶのは人間の随意であるが、善思・善語・善行が大切であるとされる。
 善行を尊ぶため、社会の一員として活躍することが勧められ、世間から身を引くことは罪業であるとされる。
 また、現世の行動の結果によって来生が決まるとされる。アフラ・マズダーの栄光の下に迎えられるか、アンラ・マンユによって支配される地下世界へ転落するかである。善行によって救済されるとするが、原罪や輪廻といった考えはない。

 火をアフラ・マズダの象徴とするが、火を礼拝しない。崇敬の対象ではなく、全知の偉大な神を象徴しアフラ・マズダを人々に思い出させるものに過ぎない。

 死後に遺体を「沈黙の塔」へおさめて鳥葬を行う習慣があるが、現在では埋葬や荼毘も行われるようになってきた。


【ザラスシュトラ(人)】
 その名は、「ザラ」+「ウシュトラ」で、「ウシュトラ」は駱駝(ラクダ)を意味し、「ザラ」は「古いもの」とも「怒り」ともいわれるがはっきりしない。「駱駝を扱うことのできる者」の意であるとする説もある。ギリシャではゾロアスターとよばれた。
 彼の父は遊牧の民であったスピターマ家のポルシャースパという名の人で、母の名はドゥグドーワーと伝えられている。誕生の地は、当時のペルシャの北東部(現在のイラン・アフガニスタン・トルクメニスタンの国境が接するあたり)とみられる。
 ザラスシュトラは宗教的伝承に通じ、祭司としての素養をつんだようである。30才までに祭司になっていたようで、そのとき最初の顕象(けんしょう。ビジョン。)を見た。人生において7回の顕象を見たとされる。最初の顕象のあと10年間、宣教の旅を行うが、信者は1人(父方の叔父の息子)しか得られず、成功を収めることはなかった。42才のとき、イラン北東のバルク近辺にあった王国の統治者ウィーシュタースパの入信を得て支持を受けた。
 彼は3度結婚しており、最初の妻との間に4人、2番目の妻との間に2人の子供があった。3番目の妻はハウォーウィであったが、子供はなかった。末娘のポルチスターが、ウィーシュタースパの宮廷人であったジャーマースパと結婚し、ゾロアスター教が継承されていく。
 ゾロアスター教はペルシャ中に広まったが、旧宗教の祭司などからの中傷を受けていた。彼が77才のとき、イラン東北部の町バルクで説教をしていたところを襲われて殺害された。


【ゾロアスター教の歴史】
 ザラスシュトラの死後はジャーマースパがこの宗教を主催し、しだいにペルシャの他の地域へ流布していった。
 メディアにあった血族的祭司集団マグがゾロアスター教を受け入れていたが、ここからギリシャ人へ伝わった。(キリスト教徒は新約聖書に出てくる「東方三博士」をマグだとみなしている。)
 アケメネス朝ペルシャのキュロス王(彼はゾロアスター教の信者であったと思われるが断定はできない。)は、バビロンに捕囚されていたユダヤ人を解放したが、このときゾロアスター教がユダヤ教に混入したのではないかとみられる。
 さらに、アケメネス朝のダリウス一世(ゾロアスター教徒であった。)は夏の宮殿をペルセポリスに建設したが、そのペルセポリスにはゾロアスター教のシンボルであるフラワシ(有翼円盤人物像)が刻まれている。
 ダリウス一世の息子クセルクセスも、アフラ・マズダーの崇拝を刻んだ碑文を残している。
 マケドニアのアレキサンダー大王がアケメネス朝ペルシャを滅ぼしたとき、ペルセポリスは略奪され火をかけられた。寺院が破壊され祭司が虐殺され、ゾロアスター教はその支持基盤を失った。
 その後、パルチアで復興され、ササン朝ペルシャでは国教とされたが、イスラム教のアラブ軍によってササン朝ペルシャが滅ぼされるとゾロアスター教は永く迫害を受けることとなる。
 迫害を逃れた敬虔な信者と祭司の一群が、AD936年かあるいはもっと早く、インドのグジャラート州へ渡った。彼らはインドに定着し、イランのパールス州の出身だったため「パールシー」と呼ばれるようになった。
 現在のイランでは、ゾロアスター教徒は少数民族となっている。現在のインド・パキスタンに住むゾロアスター教徒も少数民族であるが、敏腕だが正直な実業家、慈善事業への寄付、博愛主義で知られている。現在においても、インドはゾロアスター教徒の拠点の一つとなっている。


【聖典アヴェスター】
 「アヴェスター」の最古の部分は、ザラスシュトラ自身によって作られたとみられる(ガーサー・アヴェスター語で書かれた17篇の頌歌あるいは詩篇)。このガーサー・アヴェスター語には文字はなかった。狭い地域で比較的短い期間使われた方言で、ゾロアスター教誕生の時期と地域を特定するカギになるとみられている。
 口承された「アヴェスター」が、いつころ書写されたのかはわかっていない。

 マケドニアのアレクサンダーがアケメネス朝ペルシャを滅ぼした際に、ペルシャの首都ペルセポリスに火がかけられ、「アヴェスター」も消失した
 パルチアやササン朝ペルシャにおいて、散逸した「アヴェスタ」の残簡を蒐集し、紀元4世紀〜5世紀にかけて「広本アヴェスタ」にまとめられた。しかし、この「広本アヴェスタ」も、アラブ人・トルコ人・モンゴル人の侵略により失われて、後世に伝わらなかった。
 再度、古代のアヴェスター諸文献がまとめられたものが今日の「アヴェスター」で、原典の4分の1くらいとみられている。



【LINK】
LINK ゾロアスター教-Wikipedia
LINK ザラスシュトラ-Wikipedia
LINK Stanford UniversityStanford University Zoroastrian Group
LINK Yahoo!知恵袋日本の歴史にゾロアスター教は関わりありますか?
LINK f-anecs象徴神話・伝説・民話ツァラトゥストラの世界





参考文献
「シリーズ世界の宗教 ゾロアスター教」P.R.ハーツ著、奥西俊介訳、青土社、2004年
「宗祖ゾロアスター」前田耕作著、ちくま新書、1997年
「ゾロアスター教 神々への賛歌」岡田明憲著、平河出版社、1992年
「アヹスタ經 上・下」世界聖典全集刊行會、1920.1921年
「世界古典文学全集 第3巻 ヴェーダ・アヴェスター」訳者代表 辻直四郎、筑摩書房、1967年

更新 2014/1/11

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  cover cover cover 「ゾロアスター教―神々への讃歌」

「世界古典文学全集 第3巻 ヴェーダ・アヴェスター」

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