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BC108年 楽浪郡など4郡設置


 漢の武帝は武力により朝鮮を攻め、BC108年に衛氏朝鮮を滅ぼした。そして、衛氏朝鮮の故地に「楽浪(らくろう)郡」「真番(しんばん)郡」「臨屯(りんとん)郡」「玄菟(げんと)郡」を置いて直接支配に乗り出した。

 しかし、BC82年、設置から26年で「真番郡」と「臨屯郡」は廃止され、「玄菟郡」は西方(現在の中国吉林省方面)に移された。さらに、BC75年、「玄菟郡」は遼東郡に吸収され玄菟城(現在の中国遼寧省方面)に名目を残すだけとなった。その理由を「魏志」東夷伝では、住民が郡県の支配を嫌って抵抗したためとしている。「楽浪郡」だけが永く続いた。
 「楽浪郡」の都は、当初、現在の平壌にあったとみられる。中国の東方進出の拠点となったほか、朝鮮半島の韓(はん)族・?(かい)族・海を越えた倭(日本)にもにらみをきかせた。

 このころから、朝鮮半島の在地首長たちは、中国的な青銅器製の車馬具・鏡鑑・武器、鋳造の各種鉄器漆器などを手に入れるようになった。
 その後、しだいに青銅器は儀式用に限られるようになり、実用のための鉄器の作製・使用が盛んになった。

 AD30年に、楽浪郡の中国人系の在地豪族である王調(おうちょう)が反乱を起こし、半年以上も楽浪郡を占拠した。在地勢力の発展していたことがうかがわれる。
 AD44年には、朝鮮半島南部の国家形勢が進展し、楽浪郡に朝貢するものが現れた。AD49年にも南朝鮮の倭(注)・韓族の朝貢が伝えられている。
(注:「倭」についても、時代によって指すものが変化している。内蒙古地方の倭、南朝鮮の倭、南方の倭。ここでは、南朝鮮の倭。)

 後漢時代には、楽浪郡の組織も在地豪族を主体とするものとなり、中国の郡県支配の中心は遼東郡(現在の遼寧省方面・大陸部)に移ったらしい。
 AD132年に、高句麗が遼東郡の西安平県(現在の遼寧省丹東市付近)で楽浪郡太守の妻子を捕らえ、帯方県令を殺害していることから、楽浪郡が当時遼東郡西安平県方面へ移動していたとみられる。

 玄菟郡の太守であった公孫氏は、遼東郡をも支配し、AD204年(注:AD205年ころとしている文献もある。)には楽浪郡の屯有県(現在の黄海北道黄州方面)以南を帯方郡とした。郡県制を復興して、東方や南方の民族への影響力を強めようとしたものである。
 AD238年に、中国のは司馬宣王を派遣して公孫氏を滅ぼした。このとき高句麗は魏に援軍を送っている。楽浪郡と帯方郡は、魏に受け継がれた。魏がこの2郡の経営にのりだすと、朝鮮半島南部の韓族や日本の邪馬台国からの使節が朝貢しはじめた。

 AD266年に魏に代わってが建つと、AD274年に平州の5郡(昌黎・遼東・楽浪・玄菟・帯方)を置いた。
 AD311年に、高句麗が西安平県(現在の遼寧省丹東市付近)を陥れると、遼東郡と楽浪郡・帯方郡の連絡がたち切られた。しかし、このときの晋は匈奴に攻められて都の洛陽を落とされ、遼東郡への支援をできる状況ではなかった。遼東郡を実質的に支配しているのは鮮卑族であった。高句麗は、さらに、AD313年、楽浪郡・帯方郡をも占領するにいたった。
 これにより、BC108年から続いた中国による朝鮮半島の直接支配には終止符が打たれた。こののち、半島南部の馬韓・弁韓・辰韓の小国の集まりは新羅と百済に統合していき、高句麗・新羅・百済の三国時代へ向かっていく





参考文献
「朝鮮史 新書東洋史10」梶村秀樹著、講談社現代新書、1977年
「朝鮮 地域からの世界史1」武田幸男・宮嶋博史・馬渕貞利著、朝日新聞社、1993年
「古代朝鮮 NHKブックス172」井上秀雄著、日本放送協会、1972年
「クロニック世界全史」講談社、1994年

更新 2004/1/29

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cover 「朝鮮 地域からの世界史」
「古代朝鮮 NHKブックス 172 」


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