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アッカド帝国


 シュメール人より少し遅れて、アラビア方面からセム語族の一部が移動してきて、BC3000年ころアッカド地方(シュメールの北側)に定着し、シュメール文明を吸収して文明化した。

 BC2300年ころ、アッカドの サルゴン王 Sargon は、シュメールを統一したウルクのルガルザゲシを倒し、シュメールとアッカドを統一した。これにより、シュメールの都市国家は、中央集権的統一国家により支配されることとなった。

 サルゴン王は、「全土の王」と称し、アッカド王朝の創始者となった。アッカド王朝は、5代140年間続いた。

 第4代の ナラム=シン Naram Sin の時代に特に帝国主義的に発展し、王は生前から神格化され「四方世界の王」と称した。しかし、その子の治世に帝国は分裂し、蛮族グティ人 Guti によってBC2250年ころからBC2120年ころまで支配された。この支配の後半期には、シュメール人の都市 ラガシュ、ウルク、ウル が復興した。特にウル第3王朝では、シュメール文明が最高潮となった。

 アッカド語は、古代オリエントの共通語となった。

 首都アガデの場所は、いまも不明である。


【人物】
 サルゴン
 アッカド王朝の創始者。セム語族のアッカド人。
 後世の「サルゴン伝説」によると、女神官の私生児として生まれ、葦籠に入れられて川に流されたが、拾われたのちキシュの王宮の酒杯官になったとある。
 東方はエラム、西方はマリまで勢力を拡大した。
 彼の碑文には、「5400人の兵士が日々彼の前で食事をした」と伝えている。

 リムシュ
 アッカド王朝の第2代の王。
 即位早々にウルの王カクを首謀者とするシュメールの激しい反乱にあった。王の碑文には、「シュメールと激しく戦った。8742人の兵士を殺し都市を破壊し、城壁を崩した」と伝えている。

 ナラム=シン
 アッカド王朝の第4代の王。
 「四方世界の王」と称し、みずからを神とした。
 行動的な短弓を駆使する軍隊を指揮し、地中海沿岸、小アジアからペルシャ湾頭まで広大な地域に征服活動を展開した。



【参考ページ】
メソポタミア文明


【LINK】
LINK 大英博物館ミラーサイト(日本語)メソポタミア地理古代の都市の地図

LINK ルーブル美術館(日本語)コレクションメソポタミアとアナトリアナラム・シンの戦勝碑





参考文献
「新訂版チャート式シリーズ 新世界史」堀米庸三・前川貞次郎共著、数研出版、1973年
「クロニック世界全史」講談社、1994年


更新 2003/3/16

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