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BC37年ころ 高句麗の建国


 漢の武帝が設置した朝鮮の4郡のうち「玄菟(げんと)郡」は、高句麗の封じ込めをねらって設置されたものと考えられているが、この玄菟郡がBC75年に遼東郡に吸収され玄菟城(現在の中国遼寧省方面)に名目を残すだけとなったということは、逆に在地勢力の拡大を暗示している。
 現存最古の朝鮮の歴史書「三国史記」では、高句麗の建国BC37年としている。
 高句麗は、もと扶余種族に属する一小部族であったとみられ、強力な中央集権体制を取り入れ軍事力によって近隣の諸部族を征服して拡大していった。はじめ、朝鮮半島の北側大陸部を中心に成長した。
(注:扶余・高句麗ともに、トゥングース系の民族とみられる。トゥングースは、東部シベリア・満州北部に分布する民族で、モンゴロイド・アルタイ語族。粛慎・?婁・勿吉・靺鞨・女慎・満州族と呼ばれた民族が、トゥングースに属する。
 また、扶余は、高句麗の北側、現在の中国黒龍江省あたりが本拠地とみられる。)



高句麗の建国伝説
 東扶余(ひがしふよ)の金蛙王(きんあおう)が太白山(たいはくざん・現在の白頭山)の南の河べりで女に逢った。名を柳花といい、河伯の娘だと名乗った。王がその女を東扶余へつれてかえると、間もなく大きな卵を生んだ。王は気味わるがって、割ろうとしたが割れない、野原に棄てると鳥たちがかわるがわるに温めた。不思議に思ってひろってこさせ、母親に返した。一人の男の子が生まれ、弓の名人となり、朱蒙(しゅもう)と名乗った。他の王子たちがねたんで殺そうとしたので、気配を知った母は朱蒙を逃がした。
 朱蒙は3人の伴を連れて逃げ、鴨緑江を渡ってさらに行ったところでまた3人が伴に加わった。卒本川(そつほんせん)に着いて、ここを都に定め、国名を高句麗として王位についた。家来を集め、周囲の小国を討従えて領土を広げていった。

中国が新の時代
 「漢書」王莽伝では、AD8年、王莽が新国を建て四方に使節を出したとき、高句麗扶余とともに外臣の印綬を与えられその独立が承認されている。
 AD12年、王莽は匈奴を攻撃するため高句麗に出兵を要求したが、高句麗王?(すう)はこれを拒否、王莽は高句麗を討ち?を切った。

中国が後漢の時代
 後漢時代になると、在地勢力を認めて懐柔政策がとられ、郡県支配の中心は遼東郡に移ったものとみられる。
 遼東太守の祭?は、鮮卑族を招いて財宝を与え、朝貢するよう説得し、これに応じて朝貢すると朝貢品を上回る賜物を与えた。これを聞いた高句麗は、敵対行為をやめて朝貢したという。

 高句麗・扶余を中心に、遼東郡との対立が再び起ってくると、激しい攻防が続いた。
 AD105年に高句麗は遼東郡の6県を一時奪ったが撃退され、AD111年には扶余が楽浪郡を攻めた。AD118年には高句麗が玄菟郡・楽浪郡を攻め、AD121〜122年には高句麗が馬韓・?貊諸種族とともに遼東郡の玄菟城を攻撃している。このとき扶余は遼東郡について戦った。
 AD132年には高句麗が遼東郡の西安平県(現在の遼寧省丹東市付近)で楽浪郡太守の妻子を捕らえ、帯方県令を殺害していることから、楽浪郡が当時遼東郡へ移動していたとみられる。
 AD167年に扶余は2万の大軍で玄菟郡を襲ったが失敗。翌AD168年に鮮卑族・?貊族が幽州・并州(現在の中国河北・山西両省北部・内蒙古南部)に侵入したが、翌年には後漢軍が中心勢力であった高句麗を破り、高句麗は再び遼東郡に従属した。しかし、高句麗は3年後に独立し、これを攻撃した遼東郡の軍隊は大敗した。
 後漢がAD184年の黄布の乱などで危機に瀕すると、玄菟郡の太守であった公孫氏は事実上独立し、遼東郡をも支配すると、高句麗や烏丸(うがん)を撃って勢力を拡大した。
 AD197年、高句麗の王位継承問題で、発岐と延優が兄弟で争った。兄の発岐は遼東郡に支援を求め一応王位についたが、弟の延優は都を現在の通溝から輯安(鴨緑江中流)に移して新しく国を建て高句麗を名乗るようになった。
 公孫氏は、AD204年(注:AD205年としている文献もある。)には楽浪郡を分割して帯方郡をつくった。郡県制を復興して、東方や南方の民族への影響力を強めようとしたものである。

中国が魏の時代
 公孫氏や高句麗が中国の呉と結ぼうとすると、AD238年に中国のは司馬宣王を派遣して公孫氏を滅ぼした。このとき高句麗は魏に援軍を送っている。楽浪郡と帯方郡は、魏に受け継がれた。魏がこの2郡の経営にのりだすと、朝鮮半島南部の韓族や日本の邪馬台国からの使節が朝貢しはじめた。
 魏は、AD244年に、鮮卑族や烏丸族を討って勇名をはせた幽州刺史(長官)毋丘倹(かんきゅうけん)を派遣し、高句麗の王都の丸都城(がんとじょう・現在の輯安(しゅうあん)付近・鴨緑江中流)を占領した。翌年、毋丘倹は再び高句麗を攻め。沃沮(よくそ)からさらに粛慎(しゅくしん・現在のロシア沿海州)の南部にいたった。高句麗王の東川王はほとんど単身で南沃沮(現在の朝鮮咸鏡南道)までのがれた。

中国が晋の時代
 AD265年に魏に代わってが建った。
 AD274年に晋が幽州の5郡を分割して平州の5郡(昌黎・遼東・楽浪・玄菟・帯方)を置くと、馬韓・辰韓地方の諸国が晋に朝貢した。
 AD285年、遼西まで進出した鮮卑族が扶余国を攻めて占領し、王を自殺させて、1万余人を捕虜にして遼西へ引き上げた。扶余国は東夷校尉らの援助を得て再建することができた。
 鮮卑族が遼東郡に勢力を伸ばしたが、高句麗はしきりに遼東郡に出兵し、AD311年に西安平県(現在の遼寧省丹東市付近・鴨緑江河口付近)を陥れると遼東郡と楽浪郡・帯方郡の連絡がたち切られた。しかし、このときの匈奴に攻められて都の洛陽を落とされて遼東郡への支援をできる状況ではなく、遼東郡を実質的に支配しているのは鮮卑族であった。高句麗は、さらに、AD313年に楽浪郡にを侵略し、翌AD314年に帯方郡をも占領するにいたった。
 これにより、BC108年から続いた中国による朝鮮半島の直接支配には終止符が打たれた。こののち朝鮮半島では、半島南部の馬韓・弁韓・辰韓の小国の集まりは新羅と百済に統合していき、高句麗・新羅・百済の三国時代へ向かっていく

中国が五胡十六国の時代
 中国が混乱の時期となると、高句麗は亡命者を迎え入れて、国政を整え、軍備を拡張した。
 遼西郡に基盤をおいた鮮卑族はAD337年に自立して燕国を建て、AD339年には高句麗に侵入した。高句麗は講和を申し入れ、燕に朝貢することになったが、しばしば対立し、AD342年にも燕の侵略を受けて王母・王后・先王の屍まで虜として持ち帰った。高句麗は、度重なる謝罪を行ってAD350年に許され、また、燕から征東大将軍営州刺史楽浪公に冊封された。朝鮮の諸王国が中国王朝から冊封を受ける初めての例となった。
 AD369年、高句麗は国力をつけた百済の雉壌(ちじょう)に侵入したが、百済が撃退した。AD371年に、高句麗は再び百済を攻めたが百済の伏兵に敗れ、勢いに乗った百済軍は逆に高句麗の平壌城を攻めて、高句麗王を戦死させ大勝した。
 次の高句麗王は、国力の充実に努めた。AD372年、秦から、はじめて仏教が公伝した。同年、大学を建てはじめて儒教の教育も行った。翌AD373年には、律令を頒布している。
 この間に、百済(AD346年建国)と新羅(AD356年建国)も力をつけていく。

広開土王以降の概略
 高句麗は、広開土王(在位AD391〜AD412・日本では好太王とも呼ぶ)の代になると、再び領土拡大をはかり、高句麗の最盛期を作りだした。広開土王の事跡を記したが残っている。
 中国が五胡十六国の分裂の時代が終わり、による統一国家が成立すると、隋は高句麗に対する3度の遠征を行うが失敗し、4度目の計画中に内乱が起こって自滅した。は3度の出兵を行うが成功せず、新羅と結んで先に百済を滅亡させたのち、高句麗の国内事情をみて新羅との連合軍で4度めの攻撃を成功させ、ついに高句麗は滅亡した。
 広開土王以降の詳細については、【参考ページ】を参照のこと。



【参考ページ】
391年 高句麗の広開土王(好太王)即位
668年 高句麗の滅亡





参考文献
「古代朝鮮 NHKブックス172」井上秀雄著、日本放送協会、1972年
「朝鮮史 新書東洋史10」梶村秀樹著、講談社現代新書、1977年
「朝鮮 地域からの世界史1」武田幸男・宮嶋博史・馬渕貞利著、朝日新聞社、1993年
「三韓昔がたり」金素雲著、小堀桂一郎校訂・解説、講談社学術文庫、1985年
「新訂版チャート式シリーズ 新世界史」堀米庸三・前川貞次郎共著、数研出版、1973年
「クロニック世界全史」講談社、1994年


更新 2004/3/4

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「朝鮮 地域からの世界史」
「三韓昔がたり」


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