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「朝鮮で大院君が政権を掌握」に関する資料集



大院君によるキリスト教弾圧の発端について
引用:姜在彦著「朝鮮の攘夷と開花」平凡社選書51、1977年 、18〜20ページ

『 洪鳳周(母の父は丁若繧フ長兄若鉉)といえば、帝政ロシアの南下を防ぐためフランスとの同盟を、南鐘三とともに大院君に献策して、それが天主教弾圧(1866年の丙寅教難)の発端となったことでよく知られている。そして天主教徒としてのかれは、朝鮮に対するフランス侵略の手先として筆誅を加えられるばあいが多い。もちろん天主教徒のなかには、近代朝鮮における「衛正斥邪」論の源流をなす李恒老が指摘したように、「寇賊之先導」としての役割を果たしたものが少なくなかった。
 しかし、洪鳳周にしても南鐘三にしても、かれらは天主教徒であるまえに、国をあげて鎖国攘夷にかたまっていた条件のなかでよく西洋諸国の形勢を研究し、それら列強との武力的対決につきすすむまえに、みずから進んで朝鮮の自強的開化を意図し、それを大院君の決断に期待した先覚者であったといえよう。つぎは、大院君との対話であるが、そこにも長崎が登場する。
 洪鳳周、かつて大院君に説いて曰く、「公は西洋諸国が中原を雄視する、今日の天下大勢をご存じですか」。
 大院君、竦然として曰く、「西洋国はいずこにありや」。
 鳳周、欧米形勢についてのべ、曰く、「我が国は必ず、世界の一隅に枕を高くしておれません。もし彼の国に使を通じ、之れと結交し、互いに貿易をし、その芸術〔科学技術〕を師とせば、即ちこれが富国利民の策であります」。
 大院君、かれを夾室に案内して曰く、「西洋と通ぜんとすれば海路が絶遠であり、東西が懸隔しているのに、何をもって計と為さんか」。
 鳳周曰く、「公が誠に此のようになせば、中興の偉業はたちどころに致されるでありましょう。小生は 友人南尚教、李身逵と皆同志の仲であり、願えば国家のために西国を紹介するでしょう。聞けば日本長崎の地には西洋の商人が輻輳しているとのこと、もし公が命ずるならば、釜山館から長崎の西商に信を通じ、かれらを招来する道はむずかしくありません」。
 この対話内容は、開国後の開化運動に献身した朴斎烔が、その『近世朝鮮政鑑』(上)に記録したくだりであるが、この書では洪鳳周が「洪鐘三」になっている。大院君にたいする洪鳳周の意見具申は、南鐘三と共謀したことから、このような混乱がうまれたものと思われる。また対話のなかで「友人南尚教」とあるが、じつは南尚教は鐘三の父であって、「友人南尚教」は南鐘三のことであろう。また同じく友人の李身逵は、のちにみるように朝鮮最初の受洗者となった李承薫の子息である。
 ともあれ南鐘三、洪鳳周らの大院君にたいする献策の結果は裏目にでた。大院君は密偵張命福をつかってかれらの背後関係をしらべあげ、フランス人宣教師が潜伏している事実をつきとめた。そして1866年(丙寅年)の天主教大弾圧がはじまり、九名のフランス人宣教師が処刑されたことは、1866年におけるフランス艦隊の侵入(丙寅洋擾)の口実となったのである。大院君がフランスを極度に警戒したことには、それなりに理由があった。
 というのは1856年、中国ではアロウ号事件に端を発して、同60年には英仏連合軍が北京に侵入し、清の咸豊帝が熱河に逃亡するという事件があった。大院君が天主教弾圧にさいして、「早く之れを懲らしめなければ、熱河の禍また将に我に在らん」と言い放ったのは、唇歯の関係にある中国でのこのような事情による。 』(引用:姜在彦著「朝鮮の攘夷と開花」平凡社選書51、1977年 、18〜20ページ)





【LINK】
LINK 興宣大院君 - Wikipedia
LINK 丙寅教獄 - Wikipedia



更新 2013/4/14

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