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1898年 清で戊戌の政変(保守派のクーデター)


 日清戦争の前まで清朝の政治権力を掌握していたのは西太后(せいたいごう)であったが、日清戦争に敗れてその独裁権力は小さくなり、かわって光緒帝が勢力を大きくした。
 光緒帝によって、康有為変法自強運動が支持され、中央の軍機大臣に翁同和(おうどうわ)、李鴻藻(りこうそう)、地方では湖広総督の張之洞(ちょうしどう)、両江総督の劉坤一(りゅうこんいつ)などが登用された。

 1898年6月11日には、光緒帝が康有為や梁啓超(りょうけいちょう)、譚嗣同(たんしどう)などを登用し、政治改革を断行しようとした。改革は急ピッチで進められたが、この改革を快く思わない者も多かった。
 満州人の保守官僚は漢人を中心に進められたこの改革が清朝打倒に向かうことを恐れていたし、漢人の大官にとっては中国の美しい伝統を夷狄の蛮風に変えるものとみられており、特に、「孔子は制度の改革者で、詩・書・礼・易・春秋の「五経」は春秋戦国時代に平和をもたらすための改革案をいにしえの堯や舜などの聖王の事跡として書いたものである」という説は、非常に評判が悪かった。
 また、改革により官位を去らなければならない者も多かったし、地方の有力者である郷紳もその特権の根拠は科挙合格にあり、科挙制度が廃止されることを望んでいなかった。

 改革派には、兵力もなく、十分な資金も与えられていなかった。変法運動を支持していた翁同和や張之洞なども、本来的には保守的で、権力の座に復帰してからは協力的ではなく、改革が本格化すると二の足を踏みだした。
 形勢の不利をみて、康有為らは袁世凱(えんせいがい)の支援を得ようとした。しかし、袁世凱はこれを西太后派に密告し、用兵の権を持つ西太后は、1898年9月21日にクーデターを断行した。西太后は、その権力が縮小したとはいえ、まだ、二品以上の大官の任命権や用兵の権などを握っていた。
 光緒帝は北京城(紫禁城)内の瀛台(えんだい)に幽閉された。康有為と梁啓超は、日本とイギリスに助けられて日本に亡命した。譚嗣同(たんしどう)ほか5人が逮捕され処刑された。
 このクーデターを、戊戌の政変(ぼじゅつのせいへん)とよぶ。戊戌はこの年の干支である。
 この後は、西太后が再び政治の実権を握った。



【人物】
光緒帝(こうちょてい)1871〜1908
 清朝第11代皇帝。徳宗(とくそう)。在位1874〜1908年。
 西太后の妹が結婚した醇親王奕?(じゅんしんのうえきけん)の子。西太后の策謀により幼少で帝位につき、西太后が摂政となった。17歳で親政を行い、革新政治を行なおうとしたが、1898年の戊戌の政変で北京城(紫禁城)内の瀛台(えんだい)に幽閉され、1908年に病死した。

西太后(せいたいごう)1835〜1908
 清朝第9代皇帝の文宗・咸豊帝(ぶんそう・かんぽうてい)の側室となり、第10代皇帝の穆宗・同治帝(ぼくそう・どうちてい)を産んだ。
 咸豊帝が1861年に病死したため、幼少の同治帝が帝位についたが、咸豊帝の皇后慈安皇后(東太后)とともに幼少の同治帝を助けて慈禧太后(じきたいごう)と称した。西太后は摂政となり、咸豊帝の弟の恭親王奕?(きょうしんのうえききん)が補佐した。このころは政治が安定し、同治の中興と呼ばれる。
 1974年に同治帝が没すると、西太后の妹が妃となっていた醇親王奕?(じゅんしんのうえきけん)の幼少の子を第11代皇帝の位につけて徳宗・光緒帝(とくそう・こうちょてい)とし、権力を維持したが、光緒帝が成長して親政を行ない変法自強運動を進めると、保守派とともにクーデター(戊戌の政変)を起こして再び権力を掌握した。
 その後、西太后は、扶清滅洋をスローガンとする義和団の武装蜂起を暗に援助したことから、義和団が1900年に北京に入り、外国人に数々の暴行を行ったうえ外国公使館区域を包囲するにいたると、西太后は諸外国に向かって宣戦した。このため、列強8か国が連合軍を組織して北京に進撃し、西太后と光緒帝は西安へ難を逃れることとなった。講和条約は、多額の賠償金支払や、北京・天津など華北への外国軍駐留など、屈辱的な内容で、清朝への国民の信頼を失い、革命運動が加速された。

康有為(こうゆうい K'ang Yu-wei)1858〜1927
 清朝末の学者、政治家。あざなは広夏、号は南海。広東省南海の人。
 公羊学(くようがく)を奉じた。
 光緒帝のもとで変法自強運動の政治改革を行なおうとしたが、西太后派のクーデター(戊戌の政変)により挫折した。日本や欧米に亡命後、のちに中国へ帰国したが不遇に終わった。
 著書に「孔子改制考」「新学偽経考」「大同書」などがある。

袁世凱(えんせいがい Yuan Shih-k'ai)1859〜1916
 清朝末・民国初の軍人、政治家。あざなは慰亭。河南の人。
 科挙に落第して軍人となる。1882年の壬午の変以来朝鮮におもむき、のちに朝鮮の内政外交権を掌握する。日清戦争後は新軍(日清戦争後に清が組織した近代的な陸軍)の組織に当たる。
 戊戌の政変で西太后派(保守派)に寝返り大臣となったが、西太后の没後に失脚した。
 1911年の辛亥革命では、孫文らの革命政府と妥協して、清朝の宣統帝を退位させ、翌年、中華民国の初代大総統となった。その後、革命党員を弾圧し、各地で反乱が起ったが鎮圧(第二革命)、1915年に皇帝になろうとして再び反乱が起き(第三革命)、鎮圧に努めたが、帝政を取り消し、失意のうちに没した。




【参考ページ】
1898年 清で康有為の変法自強運動



【LINK】
西太后について
LINK 中国歴史あら?カルト!西太后と溥儀の部屋西太后と溥儀の部屋(1)
LINK Yahoo!ジオシティーズ カレッジライフ佛教大学西洋史研究会〜コロンブスの卵〜西太后

紫禁城について
LINK 宣和堂電網頁故宮の番人:はじめに北京・故宮関連年表〜3〜 清代
LINK 宣和堂電網頁故宮の歩き方 北京『The Last Emperor』の歩き方





参考文献
「世界の歴史20 中国の近代」市古宙三著、河出文庫、1990年
「新訂版チャート式シリーズ 新世界史」堀米庸三・前川貞次郎共著、数研出版、1973年
「改定新版 世界史辞典」数研出版、1974年
「年表式世界史小辞典」文英堂、1988年


更新 2003/5/17

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