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1898年 義和団の乱(〜1901年)


 義和団は、白蓮教系の義和拳教という宗教を奉じる秘密結社で、当初は山東省方面にあった。義和拳教は、拳法の練習によって神通力を得るとし、団ごとに神壇を持って孫悟空、洪鈞老祖、諸葛武候など(「西遊記」「封神伝」「演義三国志」などの劇中の人物)を神として祭っていた。

 一方、このころの中国では、内地に教会が建てられてキリスト教の布教が行われ、一般民衆との摩擦・紛争事件が各地で起きていた。地方官憲や郷紳は、はじめ民衆側についていたが、教会のうしろだてに外国の領事・公使・軍隊があることが明らかになってくると、やがて民衆の味方とはいえなくなってきた。
 また、外国資本により汽車・汽船・電信・電話などの交通通信手段が進んでくると、従来の古い作業に従事していた人々は失業を余儀なくされた。
 1897年から1900年にかけての水災・干害などの天災も、人々の生活を一層苦しくした。
 これらの民衆の不満を背景に、義和団は団員を増やしていった。

 義和団のスローガンは、はじめ「打富済貧」「官逼民変」「反清復明」といった仁侠的なものであったが、日清戦争後になると「扶清滅洋」(清をたすけ西洋を滅ぼす)に変わった。
 保守排外的な傾向に傾いていた清朝政府としても、弾圧がしにくくなった。

 当初は、1898年から1899年にかけて、山東省で急速に団員の数を増やし、教会や外国人への破壊活動を行った。当時、山東省長官であった袁世凱が弾圧を行うと、1900年には運動は天津・北京へと向かい、ますます強大な勢力となった。北京での団員は20万人にのぼったという。
 西太后の清朝政府はこの運動を支援し、官軍も行動をともにするようになった。
 清朝政府が列国に対して宣戦を布告するにいたると、8か国(日本・ドイツ・イギリス・フランス・ロシア・アメリカ・イタリア・オーストリア)の連合軍が北京に進撃した。日本では「北清事変」と呼ばれる。義和団は討伐され、清朝は降伏した。



【参考ページ】
1900年 北清事変(列強が清へ出兵〜1901)





参考文献
「世界の歴史20 中国の近代」市古宙三著、河出文庫、1990年
「新訂版チャート式シリーズ 新世界史」堀米庸三・前川貞次郎共著、数研出版、1973年
「年表式世界史小辞典」文英堂、1988年


更新 2003/11/28

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