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中国殷王朝の遷都


 殷は13回遷都したとみられているが、盤庚王の遷都はいわゆる殷墟への遷都で、殷の最後の遷都であった。

 殷の初代は契(せつ)で、第14代の湯(とう)が夏を倒して天下をとった。湯の建国から200〜300年たつと、殷の国力はしだいに衰えて、諸侯が入朝しなくなった。これを再興したのが湯から数えて19代目の盤庚(ばんこう)で、都を遷都して殷を基礎から建て直した。
 湯がはじめた王朝の国号は「商」であったが、盤庚王の遷都した地方が殷とよばれていたことから、国号が「殷」とも呼ばれるようになった。



【殷墟】
 殷墟は、1899年に中国河南省安陽県の小屯村(しょうとん村)でみつかった。ここから出土した亀甲や獣骨が、当時、おこり(注:マラリア性の熱病の昔の名称)の妙薬として竜骨の名で売られており、これに古代文字が書かれているのを劉鶚(りゅうがく)(あざなは鉄雲)や端方といった人物が発見したのである。
 調査の結果、この遺跡は、殷王朝最後の都である「商邑(しょうゆう)」であることが確実となった。史記に記されている「殷墟」である。
 この遺跡からは、宮殿跡、竪穴住居跡が多数発見され、王墓とみられる11個の大墓も見つかった。この大墓は人・獣の殉葬をともなっている。また、青銅器、石器、玉器、陶器、象牙製品が多数発掘されているほか、甲骨文字の刻まれた亀甲・獣骨が数多く見つかった。
 殷王朝も夏王朝と同様に伝説とされていたが、この殷墟の遺跡が発見され、実在したことが証明された。その後、中国各地から殷代の遺跡が発見されている。


【甲骨文字】
 亀甲や獣骨の裏に複数の穴をあけて焼き、できたひび割れをみて、祭祀・軍事・天文・狩猟・穀物の豊凶などを占った。占った結果を、ひびの入った亀甲や獣骨のかたわらに刻んだ文字が甲骨文字である。象形文字が多いが、すでに漢字として一歩進んだものである。
 この甲骨文字の研究により、殷王朝後半期(BC1400〜BC1050年ころ)の政治や社会の様子が明らかとなった。


【殷王朝後半期の社会】
 政治
 殷部族の長である王は、祭祀・農耕・政治・軍事など全般にわたって、占いに現れた神意に基づいて決定する祭政一致の政治を行った。
 殷は武力による征服と商業活動によって繁栄し、王は豪壮な宮殿や大規模な王墓を造った。
 王都を大邑(たいゆう)と呼ばれ、これに多くの小邑が隷属していたとみられる。
 経済
 農業が基本産業で、木・石・貝などで作った農具を使って、きび・あわ・大麦などを生産した。牛・馬・羊・豚・犬・鶏などの牧畜や養蚕も行われた。
 この時期は中国青銅器文化の最盛期にあたる。王墓の副葬品には、「饕餮(とうてつ)文」と呼ばれる奇怪な動物の文様をもつ青銅器や、象牙細工、白陶などがみられる。中央アジアの玉類、南方産の子安貝・象牙などが、交易によって遠隔地からもたらされていた。
 戦争捕虜を奴隷として使っていたとみられているが、これを否定する説もある。



【参考ページ】
中国殷王朝
中国周王朝成立・・・作成中


【LINK】
LINK 城南山人の古代文字書道王国古代文字と古代文字書道 Q&A古代文字の図版資料
LINK 南山大学受験生の皆様南山の先生 2005人類文化学科助教授 西江清高 (注:饕餮文の画像が載っていたのでリンクしました。)





参考文献
「新訂版チャート式シリーズ 新世界史」堀米庸三・前川貞次郎共著、数研出版、1973年
「日本大百科全書2」小学館、1985年 から「殷」松丸道雄著および「殷墟」貝塚茂樹著
「中国の歴史 コンパクト版 第1巻 神話から歴史へ・中華の揺籃」陳舜臣著、平凡社、1986年
「クロニック世界全史」講談社、1994年
「世界美術大全集 東洋編 第1巻 先史・殷・周」小学館、2000年
LINK インターネットの「goo辞書:国語辞典」から「おこり(▼瘧)」(三省堂提供「大辞林 第二版」より)


2005/6/21

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