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中国殷王朝


 殷王朝も夏王朝と同様に伝説とされていたが、遺跡(殷墟)や甲骨文字がが発見され、実在したことが証明された。

 殷の初代は(せつ)で、夏王朝のときに諸侯の列に加わっていたものとみられる。当初は河南省の(しょう)という国に封じられていたことから「商」とよばれるが、後に殷に遷都したため「殷」とも呼ばれる。司馬遷の「史記」では殷となっているが、甲骨文では全て商となっており、自称は商であった。
 初代の契は、禹(夏王朝の初代)を補佐して治水工事に功績があったといわれる。契の母は簡狄(かんてき)といい有?(ゆうじゅう)氏の娘で帝?(ていこく)の次妃だったという。簡狄は三人で水浴びをしていたときに玄鳥(ツバメのこと。)が卵をおとしたのを見て、その卵をのんだところ身ごもって契を生んだという説話がある。

 夏王朝を倒して天下をとったのは、契から数えて第十四代の(とう)のときで、そのときの宰相は伊尹(いいん)であった。

 伊尹には、変わった説話が多い。
 伊尹の母は伊水のほとりにいて身ごもったとき、夢で神のお告げをきいた。「水に臼が浮かんでいたなら、東へ一目散に走って、けっして振り返ってはならぬ」というもので、翌日、臼が見えたので東へ走ったが十里いったところで振り返ってしまうと、村はみな水となり、彼女は空桑(なかが空洞の桑の木)となってしまった。有?国の女が桑の葉を摘みに来て空桑のなかに赤ん坊を見つけ、有?氏の君に献じると君は料理人にその子を育てさせた。これが、伊尹であるという説話がある。
 「晏子春秋」では、伊尹のすがたを「黒くして短く、蓬頭にして髯づら、頭は上がでっかちで下がとがり、せむしで声が低い」と描写している。
 伊尹は有?(ゆうしん)氏の娘が湯へ輿入れするときに料理人として伴ったという話や、逆に、湯が有?氏を歴訪した際に小臣であった伊尹を所望し、その後に有?氏の娘を妃に迎えたという話もある。
 伊尹は湯に仕えたのち夏におもむき、夏の無道をにくんで湯のもとへ戻ったという。夏へ諜報活動に行ったものと考えられる。夏へ行く際に、伊尹が湯の怒りに触れ、湯は伊尹に矢を射て殺そうとし、伊尹は命からがら夏へ逃げ込んだという大芝居を打ったようである。夏には、3年いたという。夏の桀王は女好きで岷山(びんざん)国を攻めたときに二人の美女を手に入れた。これを快く思わない桀王の妃の妹喜(ばっき)は、後に、殷へ戻った伊尹へ夏の軍隊配置などの重要情報を知らせたという話もある。

 夏王朝の最後の王であるは、現在の山西省の洛陽に都を置いていたと考えられている。桀の政治は乱れて罪が多いとして、殷(商)(とう)王と宰相の伊尹(いいん)がこれを攻めた。桀は鳴条へ逃げてそこで大敗し、さらに敗走してとらえられ、南巣(なんそう)に追放されたという。南巣は現在の安徽省の巣湖のあたりと考えられる。
 桀王の子孫は諸侯の地位を得て、祖先を祭ったという。夏の祖先の怨霊をおそれたものとみられる。

 殷の天下となり、湯が死ぬと、嫡男の太丁(たいてい)がすでに死んでいたため弟の外丙(がいへい)が即位するが3年で死去し、次の弟の中壬(ちゅうじん)が即位して4年で死去すると、伊尹が嫡男太丁の子である太甲(たいこう)を立てたという。
 太甲は暴虐で不明であり湯の法に従わなかったため、在位3年で伊尹によって桐宮(とうきゅう。湯が葬られた土地。)へ追放され、伊尹が政務をとった。太甲が反省し悔い改めたので、追放3年で王位に戻った。太甲の死後にその子の沃丁(よくてい)が即位し、沃丁のときに伊尹が死去した。殷の人たちは、伊尹を自分たちの祖先と同じようにまつったという。また、伊尹の子の伊陟(いちょく)も宰相となった。

 湯の建国から200〜300年たつと、殷の国力はしだいに衰えて、諸侯が入朝しなくなった。これを再興したのが湯から数えて19代目の盤庚(ばんこう)で、都を遷都して殷を基礎から建て直した。
 殷は13回遷都したとみられているが、盤庚王の遷都はいわゆる殷墟への遷都で、殷の最後の遷都であった。

 殷の歴史ではっきりわかっている部分は、殷墟とそこから発見された甲骨文であって、これは殷墟へ遷都した年以降の王十二代の部分である。


【二里岡(にりこう)文化】
 考古学的な研究によると、中国の中原地方(現在の洛陽から鄭州を中心とした黄河中流地方)において、中原龍山文化→二里頭文化→二里岡文化→殷墟文化という発展段階が認められている。二里頭文化を夏王朝、二里岡文化を殷王朝の初期に比定する説もあるが、まだ確証はみつかっていない。
 二里岡文化に先行する文化として先商文化(下七垣文化)が認められている。現在の河北省南部・河北省北部を中心とする遺跡で、周囲の諸文化と交流しながら、やがて河南省東部や黄河北岸へ広がり、二里頭文化(夏?)や山東省の岳石(がくせき)文化と接触した。さらに、二里頭文化の担い手である最初の王朝にかわって中原地区で主要な位置を占めるにいたったと推測されている。その過程で先商文化は二里岡文化へ段階的に移行し、鄭州商城・偃師商城などを建設して殷王朝を確立したものとみられる。鄭州商城遺跡は、周囲約7Kmの長方形の城壁をもっていた。
 二里岡文化は、二里頭文化から、初期の礼器としての青銅器や玉器の製作技術のはか若干の儀礼的用途の土器を継承した。


【周辺地域の状況】
 殷王朝の時には、地方に、直轄的な軍事的拠点や資源確保などを目的とした植民的拠点があったようである。湖北省黄陂の盤龍城遺跡は長江中流域の北岸に近い場所にあり、銅資源の入手のための拠点であったとみられる。このほか、山西省・河南省・陜西省に、遺跡がみつかっている。いずれも、殷王朝の衰退に歩調を合わせて衰退している。
 山東省東部には、岳石文化があり、中原文化の進出ははばまれていたようである。山東半島の縁辺部に中原王朝の文化が浸透したのは、西周中期以降ではないかとみられている。
 一方、長城地帯の東西(内蒙古中南部・東部、遼西地区、甘粛・青海を加えた華山の北部・西部)には、華北の農耕社会と対峙するように、牧畜や遊牧が大きな役割をはたす諸地域があった。BC2000年前後に、冷涼乾燥化の影響で華北型の農耕が放棄されたらしい。
 また、長河以南での稲作文化の広がりが、土器の分布によってみとめられる。江南社会の古い姿が形成されていったものとみられる。



【参考ページ】
中国夏王朝(伝説)
中国殷王朝の遷都


【LINK】
LINK 大英博物館ミラーサイト(日本語)古代中国





参考文献
「中国の歴史 コンパクト版 第1巻 神話から歴史へ・中華の揺籃」陳舜臣著、平凡社、1986年
「世界歴史大系 中国史1 先史〜後漢」山川出版社、2003年 から 「第一章 先史時代から初期王朝時代」西江清高著、「第二章 殷」松丸道雄著
「クロニック世界全史」講談社、1994年


更新 2005/7/12

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