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1936年 中国で西安事件(第2次国共合作へ。蒋介石とスターリンが提携へ。)



 「20世紀全記録」(講談社、1987年刊)p533 では、西安事件について、1936年12月12日の出来事として、次のように記述している。
『 紅軍掃討を監督激励するため、西安を訪れていた国民政府主席蔣介石が、この日未明、旧東北軍を指揮する張学良、西北軍の楊虎城らによって監禁された。
 張と楊はこの日の夜連名で、全国に打電し、蔣介石の生命を保証するとともに、「内戦の停止」「諸党派共同の救国」など8項目を蔣に要求することを明らかにした。
 また張学良は、蔣介石を捕らえたのではなく「諫言のために西安にとどめる」すなわち「兵諫」であると述べた。
 16日、国民党政府は張学良討伐を決定する。一方、東北軍内部では蔣介石処刑の声も出はじめる。この危機に至り、張の要請を受けて、17日、延安から共産党の周恩来、葉剣英らが西安に到着。彼らの説得により、蔣は8項目の要求を認め、25日釈放される。こうして、西安事件は、第2次国共合作、抗日戦線統一へのきっかけとなる。』

 これが、現在(2013年)においても、日本で一般的な主流派の認識であろう。
 しかしながら、2005年に日本語訳が出版されたユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上・下」(土屋京子訳、講談社、2005年)では、この裏の事情が詳しく記述されている。
 その概要は下にまとめたとおりであるが、当サイト管理人としても非常に納得がいくので、この説を採用したい。

 また、LINK 西安事件 - Wikipedia の「日本への影響」の項に、次の記述がある。太字は当サイト管理人による。
『当時朝日新聞社の記者でソビエト連邦のスパイであった尾崎秀実は、スターリンが蒋介石の暗殺を望んでいないという情報を元に蒋介石の生存や抗日統一民族戦線の結成など事件の顛末を正確に予測。対支分析家として近衛文麿の目に止まり近衛の私的機関昭和研究会へ参加することとなる。以後日本の中枢情報がゾルゲ諜報団を通じてソ連に筒抜けになる。』




 ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上」(土屋京子訳、講談社、2005年)を中心に要点をまとめると、概ね以下のとおり。
 また、この著書の西安事件について記述された中心部分(p310-323)と関係する部分(p179)を下部に引用しておきました。


 中国共産党と紅軍は長征を続けた結果、陝西省北部の保安(注)にたどり着いていた。長征のあいだも権力闘争を続けた毛沢東は、このときには、中国共産党のリーダーとしての地位を獲得していた。
保安は、現在の延安市志丹県と思われる。
 1936年に劉志丹(人)の名にちなんで、保安県から志丹県に変えられたという。(出典:LINK 延安市 - WikipediaLINK 志丹県 - WikipediaLINK 反党小説劉志丹事件 - Wikipedia
 また、ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上」p294-299 によると、共産党の劉志丹は陝西省の北部で根拠地を築いていたが、共産党軍の主流が長征の結果この地にやってきたのち、毛沢東によって暗殺されたものとみられる。このことは隠蔽されており、中国共産党での公式の死因は、戦死になっているという。 )
 一方、張学良は、南京を根拠地とする蒋介石の国民党政府に従って、共産党軍との戦いを続けており、この時には陝西省南部の西安を根拠地として共産党軍と対峙していた。

 西安事件の真相は、張学良が国民党のナンバーワンの座(大総統)を蒋介石から奪い取るためのクーデターであった。そのために、張学良は以前からソ連の外交官などとも接触して、自分は蒋介石が渋っている「日本との戦い」に臨む用意があるとして、ソ連の支援を求めていた。スターリンからの同意までは得られていなかったものの、ソ連の関係者から好感触を得たと張学良は感じていたのであろう。しかしながら、スターリンの考え(注:スターリンの考えは、西安事件発生後の対応によって明確に示された。)は、蒋介石を中国での実力者と認めており、蒋介石と中国共産党とを連携させて日本に対抗させ、日本の矛先がソ連に向かわないようにするため中国を強固にしておくことだった。
 一方、毛沢東の考えは、実力者の蒋介石を亡き者として、混乱のなかで自分が一歩でも中国での覇権に近づこうと、野望を抱いていた。そのために、張学良を支持してクーデターへの同意を与えたうえ、ソ連もこれを支持するであろうと嘘をついて、蒋介石を殺害するようにそそのかしたのである。

 1936年10月22日(注)、「蒋介石は自ら指揮をとるため西安に飛来し」た(出典:ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上」p309)。張学良は蒋介石の指示を受けて共産党軍と戦っていたが、1936年10月末になると「紅軍はいよいよ絶望的な状況に追い込まれ」、張学良はいまこそクーデターのチャンスだと考えた(出典:同書p310)。「張学良はこの計画を毛沢東の秘密連絡係をつとめる葉剣英と話し合い」、11月5日に「葉剣英はクーデター計画を説明するために毛沢東のもとへ向かった」(出典:同書p311)。11月25日、「ドイツと日本は防共協定を結び、ソ連が最も恐れていた悪夢を眼前につきつけた」(出典:同書p311)。「日独防共協定が発表されたその日のうちに、スターリンはコミンテルン書記長ゲオルギ・ディミトロフに緊急指令を出し、中国共産党に対して「反蒋」を捨て「連蒋」に転ずる必要性を重ねて強く認識させるよう指示した。」(出典:同書p312)
:西安事件の直前(8日前)である1936年12月4日にも、蒋介石が西安入りしたとの記述がある。途中でどこかへ行っていたのか、西安の別の場所なのか、勉強中です。)

『 一二月四日に西安入りした蔣介石は、身辺警護に関して何ら特別な措置は講じなかった。宿舎は西安郊外の温泉保養地として有名な華清池(ホワチンチー・かせいち)にあり、蔣介石の身辺には護衛数十名が付いていたが、門と敷地周辺は張学良の兵士が警備にあたっていた。さらに、張学良は実行部隊を宿舎に招き入れて下見をさせ、蔣介石の寝室まで確認させていた。
 一二月一二日早朝、事件は起こった。蔣介石は毎朝欠かさずおこなう体操を終え、着替えを始めたところで銃声を聞いた。張学良の兵士約四〇〇人が宿舎を襲った。蔣介石の護衛兵が応戦したが、警護責任者も含めて多数が射殺された。蔣介石は裏手の山へ逃れたが、数時間後、裸足のまま寝間着一枚で岩の割れ目に潜んでいるところを見つかった。泥まみれの大総統は、背中にけがをしていた。
 事件直前、張学良は毛沢東にいよいよ決行することを告げた。秘書から電報を受け取った毛沢東は、破顔一笑して言った。「床に戻りなさい。朝には良い知らせが聞けるぞ!」。 』(引用:ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上」p312-313)

 蒋介石の拉致を実行した後、このクーデターに対するスターリンの支持が得られないことを知った張学良は、蒋介石に降伏し庇護を求めるしか道がなかった。拉致後の交渉のなかで、蒋介石がスターリンの意向を受け容れたのは、実質的にソ連の人質となっていた息子の蒋経国(注)を取り戻すことが交換条件であった。
蒋経国は、蒋介石の長男。弟に蒋緯国がいるが、弟は養子で血はつながっていない。父の蒋介石と対立し、中国共産党に入党。ソ連のモスクワ中山大学に留学、1927年卒業。ソビエト共産党にも正式に入党している。蒋介石が上海クーデターを起こして中国国民党と中国共産党が対立すると、スターリンよって事実上の人質とされた。シベリアにも送られている。ソ連でロシア人女性(中国名・蒋方良)と結婚した。西安事件を機にソ連より帰国(1937年3月25日)、父・蒋介石と和解し、中国国民党に入党。要職を歴任し、後に台湾で中華民国総統の座にも就いている。(出典:LINK 蒋経国 - Wikipedia) )
 こうして蒋介石の国民党は、スターリンのソ連をバックとして、中国共産党と共に日本と対峙し戦っていくことになる。
当サイト管理人の意見:この認識が正しいとすると、西安事件によって、国民党と共産党が手を結んだばかりではなく、スターリンのソ連までもこれに加わっていることになる。
 アメリカイギリスは、日本とドイツを叩くためにこのグループと手を組んだわけである。 )

 蒋介石に降伏した張学良は、蒋介石とともに南京へ行き、蒋介石の監視のもとで軟禁生活を送ることになる。張学良は以後、政治の表舞台に立つことはなかった。




 ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上」p310-323 から長文で引用します。なお、引用文中の は、引用元での注を意味しています。また、(注)は、当サイト管理人による注釈です。
(前略)
 一九三六年一〇月末になると、紅軍はいよいよ絶望的な状況に追い込まれた。張学良は、いまこそ紅軍に救いの手を差し伸べ、モスクワの歓心を買うチャンスだと考えた。張学良の計画は、まもなく自分の管区である西安へやってくる蔣介石を監禁する、という単純かつ過激なものだった。モスクワに求めていた明確な言質はまだ得ていなかったが(張学良が派遣した使者は、あれこれ理由をつけてソ連行きの査証をなかなか出してもらえずにいた)、紅軍に救いの手を差し伸べてやり蔣介石の身柄を拘束すればスターリンの方程式も大きく変わるだろう、と、張は計算していた。これはギャンブルである。が、張学良はギャンブラーだった。「わたしの哲学はギャンブルだ」「一度や二度は負けることもあろうが、ゲームが続いているかぎり、いつかまとめて取り返せるときが来る」と、側近にも語っている。蔣介石が、自分の縄張りへやってくる――ギャンブラーにとって千載一遇のチャンスであった。
 張学良はこの計画を毛沢東の秘密連絡係をつとめる葉剣英と話し合い、自分はクーデター(中国語では「苦跌打(クーテイエター)」と音訳されている)を起こそうと考えている、と語った。一〇月二九日、葉剣英は毛沢東に電報を打ち、「蔣介石を足止めするという提案がある」と、遠回しな表現で伝えた。一一月五日、葉剣英はクーデター計画を説明するために毛沢東のもとへ向かった。
 蔣介石監禁は張学良の思いつきだったが、毛沢東が葉剣英を通じてこれを煽ったことは疑いない。ソ連の諜報機関に近いアレクサンドル・チトフは、「蔣介石を拘束する問題が……一九三六年一一月に葉剣英と張学良のあいだで話し合われた」と、記録を残している。毛沢東は、すべて承知のうえで、この計画をモスクワに黙っていた。自分のもくろみがスターリンの利益に逆行するものであり、スターリンが絶対に反対するとわかっていたからだ。スターリンにとって、蔣介石は従前にも増して重要な存在になっていた。一一月二五日、ドイツと日本は防共協定を結び、ソ連が最も恐れていた悪夢を眼前につきつけた――東西両側面を好戦的な敵国にはさまれ、しかも関東軍の支援を受けた内蒙軍がモンゴルの南境沿いに西進してソビエト中央アジアをうかがう、という図式である。日独防共協定が発表されたその日のうちに、スターリンはコミンテルン書記長ゲオルギ・ディミトロフに緊急指令を出し、中国共産党に対して「反蔣」を捨て「連蔣」に転ずる必要性を重ねて強く認識させるよう指示した。「われわれは……中国に国防政府を必要とする。計画を立案せよ……」
 蔣介石を危険にさらすことで、毛沢東はスターリンの怒りを招く相当な危険を冒していた。そこで、安全策として、毛沢東は蔣介石の監禁事件から距離を置くことを考えた。計画決行直前、張学良から葉剣英にあてて、「重大な相談あり、至急来られたし」と、西安へ戻るよう促す電報が届いた。しかし、毛沢東は葉剣英を根拠地にとどめておき、一方で、張学良には葉剣英が西安へ向かっているかのような返事を送った。そのうえで、毛沢東は張学良に、共産党としては蔣介石と妥協する余地はまったくなく、紅軍は蔣介石との戦いを断固継続する所存である、という内容の電報を打って、張学良の計画をますます煽った。毛沢東は、張学良こそが共産党にとって唯一のパートナーであるという印象を与え、モスクワもこれを了承するであろう、とほのめかした。

 一二月四日に西安入りした蔣介石は、身辺警護に関して何ら特別な措置は講じなかった。宿舎は西安郊外の温泉保養地として有名な華清池(ホワチンチー・かせいち)にあり、蔣介石の身辺には護衛数十名が付いていたが、門と敷地周辺は張学良の兵士が警備にあたっていた。さらに、張学良は実行部隊を宿舎に招き入れて下見をさせ、蔣介石の寝室まで確認させていた。
 一二月一二日早朝、事件は起こった。蔣介石は毎朝欠かさずおこなう体操を終え、着替えを始めたところで銃声を聞いた。張学良の兵士約四〇〇人が宿舎を襲った。蔣介石の護衛兵が応戦したが、警護責任者も含めて多数が射殺された。蔣介石は裏手の山へ逃れたが、数時間後、裸足のまま寝間着一枚で岩の割れ目に潜んでいるところを見つかった。泥まみれの大総統は、背中にけがをしていた。
 事件直前、張学良は毛沢東にいよいよ決行することを告げた。秘書から電報を受け取った毛沢東は、破顔一笑して言った。「床に戻りなさい。朝には良い知らせが聞けるぞ!」

第一七章「共匪」から国政へ
    一九三六年★毛沢東四二〜四三歳

 蔣介石監禁の知らせが共産党司令部に届くと、大喜びの幹部たちが毛沢東の窰洞(ヤオトン)(注:窰洞(ようどう)は、黄土層の崖の壁面に横穴を掘って作る住居。中国の華北・中原・西北地方などに見られる。)に詰めかけた。毛沢東は「ばかみたいに大笑いしていた」と、幹部の一人が回想している。蔣介石が拘束されたからには、毛沢東の望みはただひとつ、蔣の最後を見届けることだった。蔣介石が殺されれば、権力の空白が生じる――ということは、ソ連が介入して共産党と毛沢東の政権奪取に手を貸す絶好のチャンスになる。
 西安事件後モスクワに打った最初の電報で、毛沢東は介入を真剣に考えてほしいと懇請した。毛沢東は言葉を慎重に選びつつ、中国共産党は「南京政府が蔣介石を罷免して人民裁判に付すことを要求」したい、と述べた。表現は婉曲だが、これは明らかに死刑判決を示唆するもので、蔣介石殺害に対するソ連の同意を求めている。スターリンの意図が自分の狙いとは異なることを承知していた毛沢東は、蔣介石の監禁を事前には知らなかったように装い、中国共産党は「数日のあいだ公式声明を発表しない」と約束した。
 一方、モスクワから見えないところで、毛沢東は蔣介石殺害が実現するようさかんに画策していた。西安事件の発生後はじめて張学良に送った一二月一二日付の電報で、毛沢東は、「最善の選択肢は[蔣介石の]殺害です」と力説している。毛沢東は、事件後ただちに最強の外交官周恩来を西安に派遣しようとした。周恩来はその年の前半に張学良と交渉の席に着いたことがあり、二人は馬が合うように見えた。毛沢東は周恩来に対して、張学良を説得して「最後の手段を実行させる」(周恩来の言葉)すなわち蔣介石殺害に踏み切らせるよう指示した。
 真の目的を伏せたまま、毛沢東は張学良に対して、周恩来を迎えに来てほしいと要請した。当時、共産党の司令部は西安から北へ三〇〇キロ近く離れた保安(パオアン)(注:ここで言う保安は、現在の延安市志丹県と思われる。1936年に劉志丹(人)の名にちなんで、保安県から志丹県に変えられたという。)にあり、西安までは馬を走らせても数日かかったので、毛沢東は保安から近い延安(当時は張学良の支配地だった)まで張学良の専用機を迎えによこしてほしいと頼んだのである。延安には二〇世紀初めにこの地域で試掘をおこなっていたスタンダード石油が敷設した滑走路が一本あった。張学良に行動を急がせるため、毛沢東は一三日に空約束をした。「コミンテルンと申し合わせ出来、詳細は後日報告」と伝え、いかにも周恩来がモスクワとのあいだで調整した計画を携えて西安を訪れるかのようにほのめかしたのである。
 張学良が求めていたのは中国共産党経由で聞かされる口約束ではなく、ソ連が公式に発表する張学良支持の言葉だった。しかし、一四日にはソ連の二大紙『プラウダ』と『イズベスチヤ』が一面に論評を掲載し、張学良の行動は日本を利するものであると強く非難して、蔣介石支持の姿勢を明確に打ち出した。蔣介石監禁から二日目にして、張学良は万事休したことを悟った。
 張学良は、周恩来を協議に向かわせるという毛沢東の申し出に返事をしなかった。が、毛沢東はかまわず周恩来を出発させ、一五日に張学良にその旨を伝えて、延安まで迎えの飛行機を出してほしいと重ねて要請した。しかし、周恩来が延安に到着してみると、迎えの飛行機など影もなく、町の城門から中へも入れてもらえなかった。周恩来は氷点下の寒さの中、一晩じゅう城門の外に留め置かれた。毛沢東は張学良にあてて「衛兵は城門を開けず、当方の説明も聞かない」と電報を打ち、対処を強く求めた。張学良のかたくなな態度は、モスクワの方針に関して自分を欺いた中国共産党にどれほど痛恨の怒りを感じているかを表していた。
 一七日になって張学良は態度を軟化させ、大失策を収拾する方途を探りはじめた。延安に迎えのボーイング機が飛来した。張学良のお抱えパイロット、アメリカ人のロイヤル・レナードは、つい最近まで自分の飛行機に対空砲火をしかけていた共産党の人間を乗せるのだと聞かされてショックを受けた。雪になったその日の午後、帰りのフライトで、レナードはささやかな腹いせをした。「わたしはわざと気流の悪いところを選んで飛んだ」と、レナードは回顧録に書いている。「ときどきふりかえってキャビンのようすを見ると、共産主義者どもが……片手で黒いあごひげを脇へよけ、もう一方の手に持った空き缶に吐いていた。いい気味だった」
 張学良は怒りに歯を食いしばりながらも表向きは友好的な態度で周恩来を迎え、話を合わせた。周恩来が蔣介石殺害を強く勧めると、張学良は耳を傾けるふりをして、「内戦が不可避な状況になって西安が[政府軍に]包囲されたら」と答えた。

★事件から五六年後、著者のインタビューに答える張学良はなごやかな雰囲気で話をしていたが、このときだけはモスクワと中国共産党に対する苦々しい思いをのぞかせた。決行の前に中国共産党はあなたに対するソ連の本当の姿勢を伝えていましたか、と尋ねたとき、張学良はとつぜん敵意をむきだしにしてかみつき、「もちろん、伝えてなどいませんでしたよ。あなたがたは、ずいぶんと奇妙な質問をする」と言った。

 実際のところ、毛沢東は南京と西安のあいだに内戦を引き起こそうと画策し、そのきっかけを作るために紅軍部隊を南京へ動かすことを考えていた。一五日には、紅軍の幹部司令官たちに「敵の頭脳、南京政府を撃破せよ……」という命令をひそかに出している。が、この計画は反古にせざるをえなかった。そんなことをすれば紅軍にとって自滅的な結果を招きうるし、それによって南京・西安内戦が始まるという確証もないからだ。毛沢東にとって喜ばしいことに、一六日に南京政府が張学良に対して宣戦を布告し、部隊を西安に向かわせて、西安城外に駐屯していた張学良の部隊を空爆した。毛沢東は張学良に応戦を促し、さらに南京まで攻撃してこれを全面戦争に発展させるべきだと力説した。翌日、毛沢東は張学良に次のような電報を打った。「敵の要害は南京[と二本の幹線鉄道]。二万ないし三万……の部隊を鉄道路線の攻撃に向けられれば……大局は急転すべし。ご高慮いただきたい」。こうした行動に出れば張学良は南京に対して退路を断つことになり、蔣介石を殺害せざるをえなくなる、というのが毛沢東の狙いであった。

 毛沢東が蔣介石殺害の策略をめぐらす一方で、スターリンは蔣介石救出に乗り出した。蔣介石拘束の翌一二月一三日、行政院長孔祥熙(蔣介石の義兄)は在南京ソ連代理大使を召喚し、今回の事件に中国共産党が関与しているという「風聞が広まって」いること、「万が一蔣氏の安全が脅かされるようなことがあれば、国民の怒りは中国共産党のみならずソビエト連邦にも及び、日本と手を結んでソ連を攻撃せよと[中国政府に]圧力がかかる事態に発展する可能性がある」と申し渡した。スターリンは、西安事件が自らの戦略的利益に危急の脅威を及ぼすおそれのあることを理解した。
 一四日深夜、コミンテルン書記長ディミトロフの執務室で電話が鳴った。スターリンからだった。「中国の事件は、きみの許可を得てのことか?」と、スターリンは訊いた。ディミトロフはあわてて否定した。「ちがいます!そんなことをすれば、日本にこれ以上ない利益をほどこすことになってしまいます。この件に関するわが方の立場は変わっておりません」。スターリンは不気味な脅しをまじえながらコミンテルンに派遣されている中国共産党代表の役割について質問を続けた。蔣介石殺害を支持する内容の中国共産党あて電文を起草してスターリンに提出したのは、この中国人代表だったのだ。「きみのところのこの王明(ワンミン)というのは何者だ? 破壊工作員なのか? この男が蔣介石を殺せという電報を打とうとしたと聞いているぞ」。コミンテルンでディミトロフの補佐だった中国人の回想によれば、当時、コミンテルン本部で「蔣介石は片づけるべきだ」と考えない人間など「一人もいなかった」という。コミンテルンでスターリンの片腕といわれ、いつもは冷静なマヌイルスキーでさえ、「もみ手をして喜び、わたしを抱擁して、『われらの親愛なる友人が捕らえられたそうだ、ははは!』と大笑いしていた」という。
 王明は、電文の草案はKGBの外国工作責任者アルトゥール・アルツーゾフの提案に従って書いたものだ、と弁明した。アルツーゾフはまもなく逮捕され、スパイ容疑で告発された。銃殺される前、アルツーゾフは血で書いた遺書で自らの潔白を主張したが、看守は冷淡に、それは「鼻血で」書いたものだ、と述べた。スターリンは王明を不問に付した。ディミトロフは自分の疑いを晴らすため、急いで毛沢東に罪を押しつけ、スターリンにあてた手紙の中で、「当方からの警告にもかかわらず……中国共産党は[張学良と]きわめて親密かつ友好的な関係を結んだ」と書いた。ディミトロフは、毛沢東にとってさらに破滅的な見解を述べた。「彼ら[毛と同僚たち]との協調なしに、さらにまた彼らの加担なしに、[張学良が]あのような冒険主義に打って出ることは想像しにくい」。ディミトロフの言葉は、事件について事前に知らなかったという毛沢東の申し開きが虚偽であること、そして、毛沢東がモスクワの命令を軽視したことを明白に示すものであった。
 スターリンは、毛沢東が日本と共謀しているのではないかと疑った。すでに、スターリンはソ連の「中国通」をほぼ全員非難し、拷問を加えて尋問させていた。蔣介石が監禁されて四日後、尋問を受けていた大物の一人が日本(とドイツ)によるソ連攻撃を挑発するトロツキー的陰謀に関与していたことを「告白」した。まもなく告白の中に毛沢東の名も登場し、毛沢東を日本のスパイおよびトロツキー主義者として告発する大量の調査書類がまとめられた。
 ディミトロフは一六日付で毛沢東に対して厳しいメッセージを打電した。電報は蔣介石監禁を非難し、そのような行為は「客観的に抗日統一戦線を害するのみであり、中国に対する日本の侵略を利するのみである」としていた。「中国共産党は平和的解決に向けて断固たる立場を取らなければならない」というのがメッセージの重点だった。これは、蔣介石総統の解放と復位を確保せよ、という命令だった。

 電報を受け取った毛沢東は「かっとなり……悪態をつき、地団駄を踏んで怒った」と伝えられている。毛沢東が次に打った手は、電報など届かなかったことにする、というものだった。毛沢東はディミトロフからの電報を政治局に伝えず、張学良にも伝えず、張学良に蔣介石殺害を説得するため西安に向かった周恩来にも伝えず、そのまま蔣介石を亡きものにする画策を続けた。
★後年、毛沢東は、コミンテルンからの一二月一六日付電報は「ごちゃごちゃになって解読できなかった」ので中国共産党はモスクワに対して一八日付で再送信を依頼した、と主張した。これは作り話としか考えられない。中国共産党の中核部署に勤務する無線通信士が著者に語ってくれた通常の手順によれば、電報が解読不能な場合には即刻モスクワに再送信を依頼するはずで、二日間も先延ばしする──しかもこのような危機的状況において──ことは絶対にありえないという。毛沢東は一九日に政治局に対して「コミンテルンからの指導が届かなかった」と述べている。

 モスクワを相手にこうした立ち回りを演じるのは、かなり危険なことだった。毛沢東は自分が蔣介石監禁をけしかけた事実をクレムリンに隠していただけでなく、スターリンからの直接の命令を握りつぶし、公然と無視したのである。毛沢東にとっては、蔣介石を排除することによって開ける展望のほうがスターリンを怒らせる危険を上回っていたのである。
 しかし、蔣介石のほうも簡単に消されるような人間ではなかった。張学良は、蔣介石を監禁した直後にモスクワの支持がないことを知ると、蔣介石に危害を加えないことに決めた。毛沢東など何の役にも立たないこともはっきりした。秘密の合意とは裏腹に、共産党は蔣介石監禁から三日間も沈黙を保ち、張学良に対する支援を一言も表明しなかった。一五日になってようやく、共産党は公式声明を出した。しかし、毛沢東が以前にあれほど明確に口にしていた張学良を中国の元首とする件についてはいっさいの言及がなく、逆に南京政府の正当性を認める内容だった。
 張学良に残された選択肢は、蔣介石の側につくことしかなかった。つまり、蔣介石を解放するということだ。さらに、張学良自身の命を救うためには蔣介石とともに西安を離れて身柄を蔣介石の手に委ねる以外にないことも、わかっていた。南京には張学良の命を狙って刺客を差し向ける者が多数いると思われた。蔣介石のもとで軟禁される以外に身の安全を図る方法はなかった。それに、蔣介石を監禁先から南京へ送り届ける役目を果たせば、蔣の温情にあずかれる可能性もある。蔣介石は自分を殺さないだろう、という張学良の賭けは当たった。蔣介石とその後継者のもとで拘禁と保護を兼ねて五〇年以上におよぶ軟禁生活を送ったあと、張学良は釈放され、二〇〇一年にハワイで一〇〇歳の大往生をとげた。蔣介石や毛沢東より四半世紀以上も長生きしたことになる。
 一二月一四日、モスクワが公式に事件を非難した日、張学良は監禁されている蔣介石のもとを訪れ、蔣介石の前に立って黙って涙を流した。蔣介石は、自分を捕らえた男に「少なからぬ自責の念」を見た。その日遅く、張学良は蔣介石に対して、事件は「愚かで軽率な行動」であったと悟りました、ついてはあなたを解放させていただきたい、ただし秘密裏に、と話をした。蔣介石は張学良に積極的に協力する姿勢を示し、南京が波風を立てないよう手を打った。南京政府が一六日に張学良に対して討伐を宣言したとき、蔣介石はただちにメッセージを出して南京に自重を求めた。南京は軍事行動を見合わせ、蔣介石の義兄宋子文(ソンツーウエン)を「私人」の身分で交渉に派遣した。蔣介石自身が反乱グループと交渉したのではまずいからだ。宋子文は二〇日に西安に到着し、その二日後には蔣介石夫人の宋美齢も西安入りした。
 二〇日、モスクワは毛沢東が握りつぶした電報を中国共産党に再送信し、「平和的解決」を命じた。今回は毛沢東もこれを握りつぶすわけにはいかず、「蔣介石の自由回復」を支援せよ、との指示を付けて電報を周恩来に転送した。

 こうして、毛沢東は自分の目標をスターリンの思惑と一致させるべく方向転換することになった。中国共産党は蔣介石に対して「『剿共(そうきょう)』政策を停止する」よう要求し、また、西安で待機している周恩来との会談に応ずるよう要求した。蔣介石が周恩来との会談に応じたとなれば、共産党は国政における一流政党の地位に上ることができる。今日でいえば、どこかの悪名高いテロリスト集団の指導者がアメリカ大統領と会談するようなものである。
 二三日におこなわれた宋子文、張学良、周恩来による交渉で、宋子文は個人的には周恩来の主張に同意すると述べ、中国共産党の要求を蔣介石に伝えると言った。しかし、蔣介石は周恩来との会談が解放の条件だと聞かされながらも周恩来との直接交渉を拒んだ。話し合いは膠着状態に陥った。
 モスクワは蔣介石に首肯させる方法を知っていた。蔣介石からは、西安事件直前の一一月、紅軍がソ連からの武器援助の受け取りに失敗して窮地に陥った時期にも働きかけがあったばかりだった。蔣介石政権の在モスクワ大使はこの機をとらえて蔣経国(注:蔣経国は蔣介石の息子で、このときにはソ連にいて帰国を許されず、実質的にソ連の人質となっていたという。)の帰国を要請したが、それに対してモスクワは拒絶の返事をした。いまこそ、カードを切るタイミングである。一二月二四日の夜遅く、前党書記の博古(ポークー)(注:博古は中国共産党員で、指導的な役割を果たした。)が特別な知らせを携えて西安に到着し、そのおかげで周恩来はクリスマスの日に蔣介石の寝室へ通された。周恩来は蔣介石に、ご子息は帰国するでしょう、と告げた。スターリンからこの約束を受け取った蔣介石はようやく共産党の要求に応じる姿勢を見せ、周恩来に「南京へ直接交渉に来てよい」と言った。このときを境に中国共産党は公式に「共匪」ではなくなり、国政の舞台で政党として扱われるようになった。
 西安における蔣介石と周恩来の会見は短時間であったが、長年にわたる紅軍と蔣経国の交換交渉に決着をつけた。そして、これをもって国共内戦が終結した。
 その日の午後、蔣介石夫妻は西安を発った。張学良も同行し、自らすすんで自宅軟禁に置かれた。蔣介石の人気はこのときが絶頂だった。蔣介石の乗った車が南京に入城すると、自然に集まった群衆が道の両側を埋めて大総統の帰還を歓迎した。爆竹の音が一晩じゅう続いた。この時代を知る人は、蔣介石の威光は真昼の太陽の如く輝いていた、という。が、その勝利は短命で、息子の帰国を実現させた取引が結局は蔣介石にはねかえることになる。毛沢東を封じ込めてスターリンの裏をかこうという蔣介石の計算は、はかない望みに終わった。毛沢東の封じ込めは不可能であり、ちっぽけだった中国共産党は「野党」第一党に昇格したのである。
★このときから張学良は中国史を飾る伝説的人物の一人となり、数限りない著書や論文に取りあげられて賞賛と非難の両方を向けられる存在となった。しかし、張学良に批判的な人々でさえ、張学良がソ連との陰謀に関わっていたことや、事件につながった張学良の個人的野心についてはほとんど言及しない。長い人生を閉じるまで、張学良はこの事件を「純粋な動機」にもとづくものであったと主張しつづけた。一九九三年、著者に対して、張学良はこう語った。「蔣夫人はわたしをよく理解してくれて……あなたはお金が欲しくてやったのではない、領土が欲しかったのでもない、ただ犠牲[原文ママ]を求めただけなのですね、と言ってくれました」



 ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上」p179 から引用。なお、(注)は、当サイト管理人によるものです。
(前略)(注:この省略した部分には、柳条湖事件(満州事変)が起こった際(1931年で西安事件の5年前)、蒋介石の国民党軍は江西省の山の中で中国共産党軍を追い詰めていたが、このとき蒋介石が共産党に対して抗日統一戦線を呼びかけたのに対し、共産党側はこの呼びかけを拒否した、と記述されている。)
 その後、歴史は完全に改竄され、現在では、愛国的で抗日に熱心だったのは国民党よりも中国共産党のほうである、ということになっている。「統一戦線」や「一致対外」を提案したのも、国民党ではなく中国共産党であった、ということになっている。これらはすべて真実の歴史ではない。
 抗日統一戦線を望む蔣介石は、江西省の交戦地域から国民党軍を引き揚げた。紅軍はこの機に乗じてただちに失った根拠地を取り戻し、拡大し、独自の国家を樹立した。





【参考ページ】
1905年 日米間でハリマン事件(南満州鉄道の経営権問題)
1931年 柳条湖事件(満州事変へ)
1936年 中国で西安事件(第2次国共合作へ。蒋介石とスターリンが提携へ。) 〜このページ
1937年 廬溝橋事件(支那事変へ)



【LINK】
LINK YouTube ≫ 【GHQ焚書図書開封】加藤陽子 半藤一利 北岡伸一 徹底批判1[桜H25/1/16]
LINK YouTube ≫ 【GHQ焚書図書開封】加藤陽子 半藤一利 北岡伸一 徹底批判2[桜H25/1/30]
 日中共同歴史研究に対する批判の動画で、次の書籍をベースに紹介されています。
 西尾幹二・福地惇・柏原竜一・福井雄三著「自ら歴史を貶める日本人」徳間ポケット(新書)、2012年刊。
 支那事変(日中戦争)について興味深い話が多いのですが、特に、西安事件にイギリスが係わっていた可能性があるとの主張は初耳でした。(注:西安事件についての中核部分は、12分20秒付近から。)
 1936年に中国で起きた西安事件(張学良が蒋介石を拉致監禁した事件)については、ソ連の関与があったであろうと一般的にみられていますが、上の動画(15分15秒付近から)で西尾幹二氏はイギリスが関与した可能性のあることを指摘している。その趣旨は以下のとおり。
 1936年から始まったスペイン内戦で、ソ連が人民戦線政府を支援し、独伊が右派の反乱軍を支援した。日本は日独防共協定を結んで反ソ親独の立場を取った。イギリスはまだ態度を明確にしていなかったが、その後の第二次世界大戦においてソ連と連携している。こうした状況のなかで、イギリスはアジアにおいて、背後から西安事件を画策したのかもしれない。中共軍の討伐をしていた張学良は、英米系ユダヤ工作によってコミンテルンと秘密協定を結んだのかもしれない。イギリスはこの危機に乗じて中国の金融経済力を独占しようとしたのだと思う。西安事件以降、蒋介石は反共から第二次国共合作へ方向転換し、イギリスとソ連は中国国民党政府を支援していく。イギリスとソ連が手を組むという第二次世界大戦の構図が、西安事件の怪しげな動きのなかにある。
LINK 電脳文庫 歴史&Video歴史資料室中国の戦争宣伝の内幕西安事件と頻発する日本人虐殺事件
LINK ねずさんの ひとりごと支那事変の真実
LINK NEWSポストセブン西安事件の張学良 蒋介石ら国民党が共産党に負けた理由語る(2015年1月12日付の記事)
LINK まほろばの泉備忘録 「張学良 鎮す」    2007. 6/4掲載 改(2011年2月2日付)





参考文献
「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上・下」ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著、土屋京子訳、講談社、2005年
「20世紀全記録」講談社、1987年(注:1991年に増補版が出ています。)
LINK 西安事件 - Wikipedia
LINK 蒋経国 - Wikipedia
LINK コトバンク窰洞 とは
LINK 延安市 - Wikipedia
LINK 志丹県 - Wikipedia
 このサイトに、「かつては保安県という名称だったが、同県出身の劉志丹が1936年に戦死し、彼の業績を称えて改称された。」との記述がある。
LINK 反党小説劉志丹事件 - Wikipedia
 このサイトに、「保安県は志丹県と名を変え」との記述がある。
 なお、蛇足ながら、この「反党小説劉志丹事件」で現在(2013年)国家主席である習近平の父・習仲勲が「党内外の職務からすべて解任された上に下放され」たと書いてある。
LINK 言語空間+備忘録劉志丹事件
LINK 中国語辞書 - Weblio日中中日辞典剿共の意味
LINK 博古 - Wikipedia (人)


更新 2016/5/1

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