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「満州事変」に関する資料集(1)


 当サイト管理人は、満州事変の関東軍による陰謀説について、疑問を持ちながら現在勉強中です。
 まず、満州事変の全体的な軍事作戦計画と、柳条湖事件の爆破行為とを、はっきり区別して扱う必要があると考えています。軍事衝突が起こった際の作戦計画は当然に平時において研究されていなければならないものであって、この計画があったからといって謀略だと言えるものではありません。そのうえで、柳条湖事件の爆破行為が、日本側(関東軍)によるものなのか、あるいは中国側によるものなのか、勉強していきたいと思います。
 事件当時、日本側の公式発表では爆破行為は中国側によるものとされ、東京裁判でも否定されていません。どうして中国側は反論していないのだろうか。その後1956年(1955年?)になってから、花谷正 氏の証言として月刊誌『知性』河出書房に発表されて全てがひっくり返った。この時、関係者の多くがすでに死去しており、実際の執筆者である秦郁彦 氏(当時20歳代)の名前は伏せられた。(注:なんだか、うさんくさくないですか?) 秦郁彦 氏以外の研究があるのかどうかも勉強していきます。(注:秦郁彦 氏は自虐史観の持ち主でおかしな発言も多い問題のある人物と、当サイト管理人が考えている。
 当サイト管理人が関東軍による謀略説を疑っている主な理由は、次のとおり。
 @秦郁彦氏は自虐史観を持った人物で、問題のある人物であると、当サイト管理人は考えています。秦郁彦氏は、従軍慰安婦問題で吉田清治の嘘を暴いた人物ですが、おかしな主張も多いと当サイト管理人は思います。LINK 秦郁彦 - Wikipedia
 ALINK 花谷正 - Wikipedia によると、「人格面では極めて問題のある人物で、第55師団長時代は部下の将校を殴り、自決を強要することで悪評が高かった。」など評判の良くない記述がある。(花谷正氏は、柳条湖事件のとき関東軍司令部付(奉天特務機関)であった。)
 B石原莞爾が自分が戦犯であると語ったとする説(誤った「伝説」)の始まりとなった高木清寿氏の本(注:この本の内容が誤解されている。)が出版されたのは1954年(昭和29年)で、その後1956年(注:1955年説もある。)にこの「別冊知性」で発表されている。
 C関係者である本庄繁(1945年自決)、板垣征四郎(1948年A級戦犯で絞首刑)、土肥原賢二(1948年A級戦犯で絞首刑)、石原莞爾(1949年病死)はすでに死去していた。
 D中国側が主立った反論をしていない。
 E軍事作戦計画と、柳条湖事件の爆破行為とを、混同させて論じられている。 )


 次のページも参照のこと。
1931年 柳条湖事件(満州事変へ) の「関東軍による謀略説についての検討」の項


 満州事変は関東軍の謀略であるとする花谷正氏の証言として(注:実際は秦郁彦氏による著作)満州事変はこうして計画された」が発表された月刊誌『知性』河出書房について、1955年(昭和30年)とする説と1956年(昭和31年)とする説がある。当サイト管理人の心証では、1956年(昭和31年)ではないかと思う。なお、下の2つのサイトで引用されている文章は、誤字も含めてほぼ100%同一である。
○1955年(昭和30年)とする説
 ・LINK 花谷正 - Wikipedia
 ・LINK 戦史研究所オンライン資料集「満州事変はこうして計画された」 〜個人のサイトのようです。
○1956年(昭和31年)とする説
 ・秦郁彦著「昭和史の謎を追う 上」(文春文庫、1999年)p71 で、秦郁彦氏自ら「一九五六年秋」と書いている。
 ・歴史科学協議会 中村尚美・君島和彦・平田哲男 編「史料日本近現代史U大日本帝国の軌跡」(三省堂、1985年)p125-128 に一部が抜粋されて記載されているが、見出しには1956年12月と記している。
 ・LINK 田村貞雄のページ「満州事変はこうして計画された」 〜個人のサイトのようです。

 月刊誌『知性』河出書房に掲載された「満州事変はこうして計画された」を、LINK 戦史研究所オンライン資料集「満州事変はこうして計画された」から引用します(孫引です)。なお、引用文中に挿入した(注)は、当サイト管理人によるものです。赤字も当サイト管理人によるもので、関東軍謀略説を批判的に検証する際に重要と考える部分に施しました。
(注:この文章は花谷正氏の証言として書かれていますが、実際には秦郁彦氏が書いたものです。秦郁彦氏は自虐史観の持ち主だと当サイト管理人は考えており、批判的に検証していきたいと考えています。)
   満州事変はこうして計画された
   花谷 正(当時少佐・関東軍参謀)
  「別冊 知性」 昭和三〇年十二月号 河出書房
 当時関東軍参謀であった、花谷正が、満洲事変は、関東軍の謀略に基づくも(注:ママ。もの?)であったことを、証言している史料。
 当時の関東軍関係者が、満洲事変は関東軍の謀略に基づくもであったことを認めた唯一の証言。
 本庄繁、板垣征四郎、石原莞爾は、満洲事変は「自衛」であったとして、関東軍による謀略を否定しており、花谷以外の関東軍関係者で、満洲事変は関東軍の謀略に基づくものであったことを認めた者はいない。

   満州事変はこうして計画された
 満州事変の口火となつた柳条溝事件は、綿密に計画された関東軍の陰謀であつた。唯一人の生存主謀者が語る事件の真相!!
 当時関東軍参謀 花 谷 正

  序
  旅順偕行社の研究会同
  計画に加わつた人々
  現地の同志たち
  計画の露顕
  九月十八日夜
  手綱を引つぱる中央部
  満州国独立へ

   
 東京裁判では太平洋戦争の出発点を満州事変に遡つて、究明したが、たしかに柳条溝事件の爆音は其の後連鎖反応を起して、止めどない大戦争へ突入してしまつたのであるが、今考えてみて、満州事変が当初我々の考えていたような線で処理されていたら歴史の進展は多少その方向を変えていたかも知れない。
 あの時満州事変を起したことは時機としても方法としても決して誤つていたとは思えない。
 当時ブロック圏形成の動きは世界的な必然であつて、日本が満州なしに生活して行くことは不可能であつたし、逆に放置しておくならば日本は張学良及び背後の南京政府の排日によつて大陸の足がかりを失つていたかも知れないのである。我々は、世界情勢の危機にあつて日本の進むべき道は満州の中国本土からの分離のみである、更に虐げられた満州住民に王道楽土を建設してやることが東亜安定の最も好ましい政策であると信じたのであつて中国本土と果しない大戦争に入るという愚を冒すつもりは毛頭なかつた。満州事変の口火を切つた柳条溝事件については、今日それを語る者は私の他に殆んど居ない。関係者の大部分は死亡してしまつたし、またこれ迄漠然とした推測はなされていてもこの事件の裏相を語つた者は誰もいない。
 記憶をたどりつつ当時のことを記してみようと思う。
   旅順偕行社の研究会同
 私が関東軍参謀で満州に赴任したのは昭和三年八月張作霖爆殺の二ヵ月後であつた。更に二ヵ月おくれて石原莞爾中佐が作戦主任として着任した。満州事変を遂行した中心は何といつても石原であるが私は以後事変迄、間に一年抜かして彼と接触し、共に談じた間柄でその人柄も良く知つている、石原という人は軍事学者としては一流の人で、若い時からフリードリッヒ大王、ナポレオン戦史を研究し、この頃にはすでに軍事学の立場に立つた一つの世界観を持つていた。
 日蓮宗の色彩が強かつたことはあるが、ともかくも思想家であつたという点は当時の軍内においても珍らしい存在であつた、又非常に私生活の正しい人で若い時はどうであつたか知らないが、女遊びや宴席に出ることなど一切しなかつた、只彼の短所は、他人より十年、二十年先のことを考えていたせいもあるが云い出すことが良く云えば天才的わるく云うと奇矯、突飛に見えることがあり、現実ばなれしていると誤解されることがあつた。
 しかし決して夢想的理想家ではなく、一たん綿密に計画を策定すると電光石火の如く、強力に実行して行く胆力を持つていた。満州事変当初の作戦は世界軍事学界の驚歎の的になつた、といわれる。
 私が満州に行つてしばらくは張作霖爆殺の真相が次第に明らかになり、河本大佐が、東京に呼び返されて審問されるというようなことがあり、現地の空気は落ちつかなかつた。
 真相調査のため峯憲兵司令官が十月頃満州にやつて来たが、関東軍の方で協力的態度に出なかつたため、何物も得ることが出来ず、帰国する途中朝鮮軍に立ち寄り、軍司令官に苦衷を述べると、すぐ中隊長以上を集めて夕食会をやりその席上の雑談で、爆破作業を行つた龍山工兵隊の神田中尉等から状況説明を聞いて使命を果したということがあつた。
 河本大佐は張爆殺を機に満州南部を占領する気であつたがこれは失敗した、旨く行つていたら後の満州事変はこの時起つていたかも知れないのである。それどころか新しく東三省統治の席に就いた張学長(注:ママ。張学良?)は直ちに易幟を打つて青天白白旗をひるがえし、南京政府と呼応して排日攻勢に出て来た、満州の情勢は悪化して行く一方である。一方北方ソ連は第一次五ヵ年計画に着手し、その戦備は次第に充実しつつあり、やがて極東において我国の一大敵国として相接するのも遠くないと思われた、石原はソビエトの国力進展には特に注意を払うていた。
 満州国建議の一大目的も赤色勢力南下に対する強力な防波堤建設にあつた。
 きて(注:ママ。さて?)、張爆殺が一段落した頃に高級参謀として板垣征四郎大佐が赴任して来た。板垣という人は石原とは対蹠的な性格で秀才型の人ではなかつたが、包容力に富み粘り強い性格で親分肌の苦労人であつた。板垣の実力と石原の綿密な計画力の結合によつて満州事変は行われたと云つても過言ではない。
 かくて、我々は悪化しつつある当面の満州情勢をどう処埋すべきかについて、毎週一、二回旅順偕行杜に集つて熱心に討議研究した。
 そのきつかけは昭和四年七月村岡軍司令官に代つて畑英太郎中将(畑俊六元帥の実兄)が着任した時であつた。我々は先ず新軍司令官の満蒙問題に対する見解を糺し、中将が充分理解ある態度を持つていることを確めた。その日の夜我々三人は会合して当面の満蒙問題に対して熱心に議論し、石原中佐の発案で「この静かな環境を利用して、世界の情勢と満蒙の状態、そこから我々の取る態度方法を研究しよう。そのため一週に一、二回偕行杜で会合して互いに腹蔵なく論議を戦わし、不明の点はそれぞれの専門家に学び又、支那馬の調査しかしていない調査班を拡充してより高度の研究を行わせよう。」 ということに意見が一致し、以後三人は毎週会合して研究を行つた。
 私は、新しい満州は、日本人を中堅として二重国籍を持たせて各民族共同の王道楽土を建設すべきだと考えていた。
 日満は不可分一体で例えば太陽の光を受ける月のようなものであるようにしたい。その際日本人は大規模な企業、智能的事業に、朝鮮人は農業、中国人は小商業や労働を分担し、各々その分を完うして共存共栄しようというのであつた。虐げられている満州人を救つて王道楽土にしようというのであるから、内地のように大資本の横暴を許すことは出来ない。
 財閥満州に立入り禁止という我々の考えはその後も一貫した。日産コンツェルンを導入したのも、日産が広汎な大衆に株式を公開していたからで、単に経営技術を使つたにすぎない。さて、我々の計画は昭和六年に入ると急に具体化して来た。張学良の排日はいよいよひどくなつて小学生の通学さえ危険になつて来る。
 しかも大恐慌の波が波及して、満州の穀物は大暴落して、農民は塗炭の苦しみに陥るし、学良の平行線建設が功を奏して満鉄も大きな赤字を出すという状況であり、邦人の多くも学良の陰に陽に手を変えての圧迫によつて生業をつづけて行くことが出来ず、満州を去る者も出て来た。
   計画に加わつた人々
 昭和六年春頃には柳条溝事件のおよその計画が出来上つていた。きつかけを作るのは易しいことであるが、その後の処置が問題である。張作霖爆死事件の時の教訓を生かして計画は綿密に樹てられた。考えてみるとあの頃は未だ機が熟していなかつた。張作霖一人を殺しただけでその後に来るべき行動が何もなかつた。中央部との連絡が全くないし、隣接朝鮮軍との何の打合せもなかつた。国民の満州に対する関心も薄くて、すべて足並がそろわなかつたのである、その上、浪人を使つたり支那人の浮浪者を使つたりして、結局日本軍がやつた陰謀だということが露見してしまつた。今度は二度と同じ誤ちを冒してはならない。事件が起つたら電光石火軍隊を出動させて一夜で奉天を占領し、列国の干渉が入らない内に迅速に予定地域を占領せねばならない。その時政府や出先外交官からじやまされることを考えなければならないがそこをぐずぐずしていると結局何も出来なくなつてしまうだろう。従つて時には中央の命令を事実上無視しても強行する必要があるし、関東軍の行動を支援するため、中央部の中堅将校を同志に引き入れて、内部から、助力してもらい又橋本一派の国内クーデターが同時にあれば益々好都合である。更に隣接朝鮮軍からは適宜増援してもらわなくてはならない。
 幸い、同軍参謀の神田正種中佐が、満蒙問題には経験も深く我々の計画に同意してくれたのでいざという時には朝鮮軍の援助を得る見通しが立つた。石原からの要望で神田中佐は事件迄に三度位旅順を訪れて来た。彼は元来ロシア班出身でハルピン特務機関にも居たことがありソ連通の硬骨漢であつたが、朝鮮軍に来て、朝鮮の事態が想像していたよりはるかに悪いことを知つて驚いていた。鮮人の排日気分は子供に迄徹底していて、田舎の方へ行くと日本人一人の旅行でも危険だという、これも満州の排日が伝染したためであり、満州事変は朝鮮軍の立場から云つても必要だというのであつた。
 最初計画を持ち出した時は朝鮮軍司令官は南中将で神田は南ではちよつと独断越境などむりだといつて難色を示したが、林(銑十郎)中将が来てから意見を叩いてみると、話が良く分る。これなら大丈夫だと云つて来た。
 一方中央部では、当時第二部長から第一部長に変つた建川(美次)少将が、張作霖事件以来の経緯もあつて一番信頼がおける。二宮参謀次長となると元々抜け目のない人間だから少し危険だ。無条件で信頼出来る人は支那課長重藤千秋大佐、支那班長根本博中佐、ロシア班長橋本欧五郎(注:ママ。橋本欣五郎?)中佐の三人で、永田鉄山軍事課長も一応信頼出来た。彼等に対してどの程度計画を明かしたか数字で示せば橋本、根本が九十五パーセント、建川、重藤が九十パーセント、永田が八十五パーセント、小磯、二宮が五十パーセントという所であろうか。
 六月頃私は彼等と大体の打ち合わせをするため内地に帰つた。橋本、根本に会つて相談したが、二人と奴国内改造(注:ママ。奴?)に熱心であつたので満州事変を起したら、そのはずみで改造も出来易くなるだろうという点では意見一致したが、橋本はクーデター第一主義でクーデターを先にやりたいと云つていたが結局十月頃同時にやろうということになつた。細かい爆破計画などは彼等の方も特に聞かなかつた。
 八月、師団長会議があつて、南陸相が満蒙問題について積極的意見を述べて問題になつたが、この時関東・朝鮮・台湾各軍司令官も出席したので新任、本庄(繁)軍司令官に板垣大佐が付いて上京した。林朝鮮軍司令官には神田が付いて行つた。
 この頃興安嶺方面の地誌調査に来ていた中村震太郎大尉が殺害される事件が起りつずいて(注:ママ。つづいて?)万宝山事件があり、満州の空気はますます険悪になつた。計画実行の時はいよいよ近付く。八月下旬私は満州の実状を中央部に認識させる任務をもらつて上京した、私は中村大尉事件について、奉天特務機関補佐官として張学長(注:ママ。張学良?)側官憲と交渉を重ねていたが、問題はこじれるばかりである。そこで、実力発動をこの機を利用してやるとして中央部はどういつ意見を持つているか、もう一度確めてみたいと思つた。
 二宮、小磯、建川、永田以下と意見を交し、二宮、建川には特に、 「このままでは近い内日支両軍は衝突するようになるから、その時の対策を考えておいてくれ、しかし、衝突したら当面の処理は関東軍に任せて欲しい。関東軍としても国際情勢を慎重に考慮して行動するつもりだから細かいことまで干渉しないでくれ」という風に切り出して、作戦発動の場合、南満だけに局面を限定するか、作戦時期、兵力量の見込、外交々渉に移る時期、北京に在る張学良処理について話し合つた。二人とも私の云うアトモスフェアで言外の意味を覚つてくれたか、政府に対して、どの位出られるか分らないが出来るだけ貴軍の主張貫徹に努力しよう」と約束してくれた。
 それから橋本、根本に会つて「準備は完了したから、予定通り決行する」と云うと、根本は「今だと計画が実現出来る程、国内の支援があるかどうか不安である。特に若槻内閣ではやりにくいから内閣が倒れる迄待つてみないか。急いでも本庄さんに腹を切らせるだけだ」と延期をすすめたが、私は「もう今となつては待てない、矢は弦〔ツル〕を放れているんだ」と云つて満州に帰つた。
   現地の同志たち
 さて現地の計画の方はどういう風に進行して行つたか。本庄新軍司令官が着任したのは、〔昭和〕六年八月であつた。新軍司令官といつても本庄氏は支那関係子の大先輩で重厚な性格の人格者で、将器の名にふさわしい人であつた。
 この大事な時期の軍司令官としては適任であり、中央の人事当局もその点はよく考慮したのであろう。
 我々は細かいことは本庄さんには何も云わなかつたが、平常から観察した所では、いざという時には頼もしい存在となるに違いないと判断していた。
 三宅参謀長以下幕僚の大部分には計画を明かさなかつた。爆破工作の担当は、四月に張学良軍事顧間(注:ママ。顧問?)(柴山兼四郎少佐)の補佐官として着任した今田新太郎大尉に割振られた。今田大尉は、漢学者を父に持つ剣道の達人で純情一徹正義感に燃えた熱血漢であつた。
 必要以上の人物に秘密を洩らすのは危険であるから同志の選定には苦心した。
 爆破工作は素人にやらせると、どうしても露見し易いことから軍人を使うのが最も良いが爆破後直ちに、兵を集めて行動を開始する以上在奉天部隊の中堅幹部にはどうしても秘密を洩らさねばならぬ、そこで一人一人酒を飲ませて云いたいことを云わせ,、これならと思つた人物には計画を明かして同志を固めて行つた。
 即ち、川島大尉、小野大尉(何れも在奉天独立守備隊島本大隊の中隊長)小島少佐(在奉天第二十九連隊付)名倉少佐(同大隊長)三谷少佐(奉天憲兵隊)で、補助作業には甘粕正彦予備大尉、和田勁予備中尉等が参加した。
 島本大隊長には何も明かさなかつたので事件当夜は全くの寝耳に水でおどろいたらしい。
 一方事件発生と共に、満鉄沿線各地で、爆弾を投げたりして、治安不良の廉により、領事から救援要請を乞わせそれを理由としてどんどん出兵するために甘粕正彦等が、潜行することになつた。九月十八日直後ハルビンや吉林で起つたこの種の事件は予め組立てられたものであつた。
 また現場付近の警戒や連絡に喰いつめた浪人や青年を使うことにして、和田勁がこれを統率することになつた。
 資金は内地から、河本大作の手を通じて届いたので当面不自由はしなかつた。
   計画の露顕
 我々は最初鉄道爆被を九月二十八日に行う予定であつた。爆音を合図に、奉天駐屯軍兵舎(歩兵第二十九連隊)内に据え付けた二十八糎要塞砲が北大営の支那軍兵舎を砲撃する。同時に在奉天部隊が夜襲をかけてこれを占領するというのである。一ところでこの要塞砲は元々ここにあつたものではない。この年の春永田軍事課長が満州視察に来た時我々は、
「在満関東軍は総兵力一万にすぎないのに学良軍は素質良好とは云えないが約二十二万の兵力をようし、その上フランスから輸入したものを主として、三十機の飛行機さえ持つている。こちらは飛行機は一機もなく奉天には重砲一門さえない。これではいざという時に困るではないか」
と云つて旅順要塞から分解運搬して据付けたものであつた。
 重砲がすえ付けられるというと神経を尖らせるので、井戸掘りをやつているという名目にして周囲を囲い、外からは何があるか分らないようにした。それで我大砲のあることは薄々知れたと見えて領事館などでは探りを入れていた。二十八サンチの巨砲と云つても性能はわるく据え付けても良くない上に操作する砲兵が居ない。
 それでも北大営からの直距離を計つて始めから照準を合わせておいた。これなら眼をつぶつていても命中する。問題は威嚇にあつて実際効果は大して期待してはいなかつたのである。
 この重砲の据え付けは九月十日過ぎには完了したが、尚臨時の砲兵に操作を教えたり弾薬を集積したりするのに手間がかかる。そして高梁が刈取られた後が作戦に好適である(高梁が繁茂していると、匪賊がかくれても発見しがたい)という見地から九月二十八日が選定されたのであつた。
 それが十八日にくり上つたのは以下に途べる(注:ママ。述べる?)事情からである。
 九月十五日、かねてから連絡打ち合わせをしていた橋本中佐から「計画か(注:ママ。が?)露顕して建川が派遣されることになつたから迷惑をかけないように出来るだけ早くやれ。建川が着いても使命を聞かない内に間に合わせよ」という電報が特務機関に舞い込んで来た。
 後から聞くとこれはこういう事情であつた。
 我々が満州で色々画策していることは現地外交出先に薄々感付かれていたらしく噂は海を越えて内地にも伝わつた。
 金で買収した浪人達が酒を飲んで大言壮語したり、弾薬や物資の集中をやつていたことそれに私も酒の勢いで、多少大きなことを云つたりしたのが原因が(注:ママ。か?)と思うが、ともかくそういう情報が、幣原外相の耳に入つて閣議の席に持ち出された。陸軍大臣は南次郎だが、この人は東洋大人的な茫洋とした人物で、幣原が色々つついても不得要領な返事しかしない。「軍が勝手にそんなことをする筈はないと思う」と突つぱつたが、幣原から林奉天総領事の打つた電報を見せられて少しあわて「とにかく事実かどうか調査してみる」と答えて帰つて来ると建川第一部長を呼んだ。
 南から聞かれた建川は「そういうことを計画しているという噂もないではありません」と答えた。すると南は「それは困る、お前行つて止めるように云つてくれ」と云うので建川自身が奉天へ止め男として出かけることになつた。建川は困つたことになつたと思つて橋本と根本を呼んでそのことを告げた。そこで建川の暗示で、早速前のような電報を関東軍に打つた訳である。この時は橋本等中央の同志は青くなつてあわてたらしい。当時土肥原奉天特務機関長は東京から帰任の途中で、十八日に京城で神田中佐と会つて奉天へ向つていた。
 建川は十五日夜東京を出発して途中ゆつくりと列車、連絡船を利用して密行で満州へ向い十八日午後本溪湖駅迄迎えて出た板垣大佐と共に、奉天駅に降り立ち私は駅からすぐ車で建川を奉天柳町の料亭菊文に送り込んだ。
   九月十八日夜
 一方建川から電報を受け取つた私は、九月十六日午後奉天特務機関の二階に関係者全員を集めて対策を協議した。
 丁度本庄新軍司令官の初度巡視があり、この日板垣、石原も奉天に滞在していた。
 集つた着は板垣、石原、私、今田の他、実行部隊から川島、小野両大尉、小島、名倉両少佐等で奉天憲兵隊の三谷少佐は欠席した。
 決行するかどうかをめぐつて議論は沸騰し私は「建川がどんな命令を持つて来るか分らぬ。もし天皇の命令でも持つて来たら我々は逆臣になる。それでも決行する勇気があるか。ともかく建川に会つた上でどうするか決めようではないか」と主張したが、今田は「今度の計画はもうあちこちに洩れている。建川に会つたりして気勢を削がれぬ前に是非とも決行しよう」と息まいて激論果しなくとうとうジャンケンをやつて、一応私の意見に従うことになつた。
 ところが翌日になつて今田が私の所へやつて来て、 「どうしても建川が来る前にやろう」と云う。私は「東京と歯車を合わせてやつた方が得策だ」と説いたが何としても今田が云うことを聞かぬのでとうとう私も同意して「建川の方は僕が身を以つて説得しよう」と約束して十八日夜決行を決めた。それから先ず小島を呼び、川島、名倉を呼んで「十八日にしたぞ。お前達の大隊はどんどんやつて奉天城を一晩で取るんだ。川島は北大営を取りさえすればいい」と云い渡し、現場付近のゲリラ隊である和田勁等にも連絡して準備をととのえた。
 十八日建川を菊文に送り込んだ私は、浴衣に着かえた建川と酒を飲みながら、暗に彼の意向を探つた。酒好きの建川は、風貌からしても悠揚迫らざる豪傑である。にも拘らず、頭は緻密で勘が良い。私の云うことは大体覚つたようだがまさか今晩やるとは思わなかつたようだ。しかし止める気がないことは、どうやらはつきりした。
 いい加減の所でいい気嫌になつている建川を放り出して特務機関に帰つた。板垣も帰つている。石原は軍司令官に従つて前日旅順に帰り、今田は計画指導のため飛び出していて姿を見せない。十八日の夜は半円に近い月が高梁畑に沈んで暗かつたが全天は降るような星空であつた。
 島本大隊川島中隊の河本末守中尉は、鉄道線路巡察の任務で部下数名を連れて柳条溝へ向つた。北大堂(注:ママ。北大営?)の兵営を横に見ながら約八百メートルばかり南下した地点を選んで河本は自らレールに騎兵用の小型爆薬を装置して点火した。時刻は十時過ぎ、轟然たる爆発音と共に、切断されたレールと枕木が飛散した。
 といつても張作霖爆殺の時のような大がかりなものではなかつた。今度は列車をひつくり返す必要はないばかりか、満鉄線を走る列車に被害を与えないようにせねばならぬ。そこで工兵に計算させて見ると直線部分なら片方のレールが少々の長さに亘つて切断されても尚高速力の列車であると一時傾いて、すぐ又走り去つてしまうことが出来る。その安全な長さを調べて、使用爆薬量を定めた。
 爆破と同時に携帯電話機で報告が大隊本部と特務機関に届く。地点より四キロ北方の文官屯に在つた川島中隊長は直ちに兵を率いて南下北大営に突撃を開始した。
 今田大尉は直接現場付近にあつて爆破作業を監督したが元々剣道の達人、突撃に当つて自ら日本刀を振りかざして兵営に斬り込んだ。片岡、奥戸、中野等、雄峯会の浪人連中もこれに協力した。
 特務機関では、何も知らずに宴会から帰つて熟睡していた島本大隊長が急報であわててかけつけて来た所へ板垣が軍司令官代理で命令を下す。第二十九連隊と島本大隊は直ちに、兵を集合させて戦闘へ参加する。
 北大営では支那側は何も知らないで眠つている者が多かつた上、武器庫の鍵をもつた将校が外出していて武器がなくて右往左往している内に日本軍が突入して来る。かねてから内通していた支那兵も出て来るという調子。そこへ二十八サンチ重砲が轟音と共に砲撃を始めたので大部分の支那兵は敗走し、夜明迄には、奉天全市は我が手に帰し早速軍政が布かれて臨時市長に土肥原大佐が就任した。
   手綱を引つぱる中央部
 私は爆破の報告を受けると直ちに旅順の軍司令部宛電報を打つた。石原中佐は全参謀を呼集して軍司令官の前で、作戦案を説明し軍司令官は直ちにこれを決裁した。
 即ち軍司令部は、十九日早朝列車で奉天に向い、満鉄沿線に分散配置してある第二師団主力は吉林方面に備える在長春部隊を除いて速かに奉天に集中する。独立守備隊は夫々配置されている地で行動を起して鳳鳳城、安、東営口等を占領すること、又朝鮮軍司令官林銑十郎中将及び第二遣外艦隊司令官津田静枝少将に対し増援協力を要請した。ところが津田司令官は海軍部隊営口集中の要請に対して山東方面の情勢が不穏であるという理由でこれを拒否して来た。海軍はその後も満州事変の進行に対してとかく白眼視的態度を示したがその由来はここから始まる。
 朝鮮軍の方は旨く行くかと思つたらこの方も思わぬ支障が出てきた。
 十九日朝、林朝鮮軍司令官から「朝鮮軍司令官は奉天付近における関東軍の急に応じるため、独断旅団長の指揮した歩兵五大隊と飛行二中隊を奉天に派遣する」という電報が入り、神田の努力で林もとうとう踏み切つたかと喜んでいると更につづいて「派遣隊は十時頃から逐次衛戌地を出発させる」と云つて来た。ところが同じ時刻頃中央部では、満州の情勢は大したことはないと判断して「越境允裁を仰ぐつもりだからその前に独断越境してはならぬ」と命じ、更にそれを徹底させるため新義州の憲兵隊長に敵境(注:ママ。越境?)する部隊があつたら差し止めるようにと電報した。これで越境計画はひと先ず潰れてしまつた。
 その夜の夜中、朝鮮軍から「参謀総長は本職再三の意見を以て具申したにも拘らず、強いて増援隊の派遣を差止められた」という悲壮な電報を打つて来た。
 我々の計画では二十日朝の朝鮮軍奉天到着を待つて関東軍主力を北上させハルビン迄出るつもりであつて、そのため軍を長春に集結させるよう手配していた時だけに痛憤やる方ないものがあつた。
 そうしている中に神田から関東軍が吉林方面へ出るなら、朝鮮軍は奉天が手薄になるという理由でもう一度越境をやるということを云つて来た。二十一日朝、我々は、吉林の大迫機関を使つて爆弾を投げさせ、居留民保護の名目で第二師団を吉林へ進出させた。朝鮮軍は予定通り、嘉村旅団を独断越境させて奉天へ出て来た。
 神田は更に間島方面へ出兵する口実を作るため龍井村へ出かけて、謀略をやつたが、これは成功しなかつたらしい。
 以上のような次第で、神速果敢に全満を占領しようと考えていた我々の計画は中央部の妨害に出会つて仲々進行しなかつた。
 放つておくと関東軍は何をするか分らないというので、先ず兵務課長の安藤大佐がやつて来て、東京では今回の事件が関東軍の陰謀だと云つている向きがあるがどうかと質問したが、つづいて月末には参謀本部第二部長橋本少将等がやつて来て、中央部のお目付として奉天に滞在して事ごとに口を出して我々の行動を制肘した。そして参謀本部からは我々を侮辱するような細かい指示をして来る。こんな指示は関東軍のような大組織に対してなすべきことではないのであるが。
 吉林を占領した後我々は、ハルピンに何とかして出たいと思つた。出兵の機会を作るために甘粕元大尉をひそかに潜入させて、九月二十一日以来正金銀行支店等いくつかの建物に爆弾を投げさせた。効果は現れてハルピン総領事及び百武特務機関長から現地保護要請の電報が届いたので軍では再三、中央部に派兵を要求したがハルピンヘ出るとソ連が動くのではないかと危慎する中央部によつて拒否された。
 参謀総長からは、
 1 寛城子以北に兵を進める勿れ、
 2 満鉄以外の鉄道を管理すること勿れ、
 3 参謀総長の指示を持たずして新しい軍事行動をとる勿れ、というきびしい命令が届いたので一先ず断念する他なかつた。
 ハルピン占領が出来たのは翌年一月で、この時には我々と上海の田中隆吉少佐の合作でやつた上海事変に火がついたのでそのどさくさにまぎれて簡単に作戦を終了した。
 石原を中心とする我々の考え方は、北満に出てもソ連は動かないという判断と、国際連盟も列強も満州の事態に干渉する実力はないということであつた。当時アメリカ、イギリス、フランスの利害は極東では相互に対立していて、協同して日本を押える体制にはなかつたし、ソ連も第一次五カ年計画途上で、シベリア方面には手がまわりかねていた。ところが若槻内閣は連盟から日本が排撃を喰うことを恐れていたし、軍中央部もソ連の実力を遇大評価して、これ以上の行動に出るのを危険だと見た。
 しかしここで止めては三年前と同じく中途半端になつてしまう。
 こういう政府の弱腰を粉砕するためにやつたのが十月八日の錦川(注:ママ。錦州?)爆撃である。
 この時は石原自らが小型機に搭乗して錦州の張学良軍兵営に小型爆弾を投下した。
 実害は殆んどなかつたが、国際連盟に与えたショックは大きかつた。橋本一行は驚いて我々を詰問にやつて来たが、剣もほろろの挨拶に、彼等も憤激して帰国してしまつた。
 この爆破で連盟の日本に対する態度は急に悪化した。我々の狙いは当つた訳だ。
 統制に服しない関東軍に手を焼いた中央部は、十月中旬、侍従武官川岸少将を慰問に派遣して来た。我々は「よくやつた」という御嘉賞の言葉を頂くつもりでいた所、侍従武官の来る日の朝、陸軍大臣から「関東軍独立の噂があるがそういう企図は中止せよ」という電報が来た。これは夢想だにしなかつたことで我々はかんかんになつて怒つた。後で聞くと、同時に十月事件の首謀者達が捕らえられて、その際、誰かの流したデマか針小棒大に伝えられたのが原因らしい。
   満州国独立へ
 一応南満州は関東軍の占領するとこるとなつたので、我々はかねての計画通り、溥儀引出しを開始することになつた。
 溥儀を引き出して満州の元首にすえることはそれほど前から確定していたことではない、我々は、事変前から薄儀に目をつけていて、旅順にいた旧臣羅振玉を通じてひそかに連絡を取つてはいた。独立政権の頭主として考えられた条件は、
 1 三千万民衆に景仰される名門の出身で徳望あること。
 2 家系上満州系であること。
 3 張作霖とも蒋介石とも合体出来ないこと。
 4 日本と協力し得ること、(注:ママ)
 以上のような条件から当然溥儀が浮かび上つて来たのである。
 石原は最初は満州植民地主義と云うか占領論であつたところが板垣が来てから独立国家論に賛成するようになつた。その時は我々の間で約一カ月に亙て議論が行われた。
 石原が最初我々の独立国家論に異議を唱えたのは、支那人の歴史を見ると政治をやらせても腐敗するだけで、仕ようがない。それよりも清廉な日本人によつて一種の哲人政治を打つた方がいいと云うのであつたが、我々は、そう云つても民族感情が許さないだろうし、第一、日本人間に哲人の名に値する人が居ないだろう。人間には神性も悪魔性もある。現実の人間性を生かした政治をやるべきだ、と主張したが、石原はいつたん我々の意見に賛成すると、そののちは徹底した、独立・国家主義者となつた。
 当時満州に層(注:ママ)た日本人の中には内地を食いつめた浪人などが多く、お義理にも満州人を指導するに足るとは云いかねた。
 只後に協和会の中心メンバーとなつた満鉄其他の青年の中には、志操高潔で邪心のない真の五族共和、王道楽土の実現を夢見る人々がいて初期の満州国は彼等が中心となつて活躍したので清新の気にみちていたが、その後権益主義務(注:ママ)はびこり、内地の資本家や官僚がどんどん入つて来てから我々の理想はすつかり崩れてしまつた。
 我々は最初「満州に財閥入るべからず」という制札を立てた位であつたのだが一片の異動命令で建国時代の同志が去ると、後は利権にたかる蟻共がすつかりよつてたかつて食い荒してしまつたのである。
 さて、九月二十二日には羅振玉が軍司令部に呼ばれて溥儀引出を命ぜられた。彼は直ちに清朝復辟派の有力者であつた吉林省の熙洽を訪れ、次いで済南の張海鵬に会つて天津へ赴いた。しかし天津に旧臣とかくれ住んでいた廃帝は関東軍の意図を計りかねたか、不安がつて仲々動かない。しかし、天津軍の三浦参謀から「宣統帝は、民衆と関東軍の支持と要望があれば、一身を犠牲にしても起つ覚悟があるが目下の状況では今直ちに立つということは考慮を要すると思う」旨連絡して来た。
 その内に工作の内容が少しずつ洩れて、中央から満州に新政権特に宣統帝を擁立する運動に参加してはならぬという命令が来た。
 このままではらちがあかないので、軍は次に、浪人上月某を派遣して天津の歩兵隊長酒井隆大佐と打合わせ溥儀をむりやり連行しようとしたが香椎天津軍司令官が、動かないのでどうにもならない。
 そこで更めて土肥原大佐が引き出しのため天津に派遣されることになつた。十月末天津に現われた土肥原は早速引き出し工作にとりかかつたが、彼の行動は逸早く支那側及び外務省出先に分つてしまつた。
 外務省では尚張学良を持つて来る考えもあり何れにしても南満にむりやり日本の傀儡政権を作るのは連盟に対してもまずいし、第一、今ごろ清朝の廃帝を引き出すのは、時代錯誤で、自然発生的政権の誕生を待ち望んでいたのである。土肥原はそこで予定通り天津に暴動を起してどさくさ紛れに皇帝を連れ出すことにしたが支那側もこれを探知して、暴動に参加する支那人を取り締つたので暴動は大したことにならなかつた。
 この騒ぎの中を溥儀は十一月十一日、天津を脱出して船で営口に渡つた。
 そしてしばらくほとぼりをさましていたが、若槻内閣が年末に倒れてからは、中央部もやつとあきらめて溥儀のかつざ(注:ママ。かつぎ?)出しに同意するに至り、翌年三月一日独立宣言と共に執政の名で満州国元首の座に坐ることになつたのである。こうして中央は一応関東軍の行動に反対しつつも結局はずるずると引きずられて信念のない失態を何度か露呈した。
 次の段階では山海関迄を手に入れる意図でもう一度天津に暴動を起して、それを理由に長城線迄出るつもりだつたが天津軍が乗つて来ないのでこれは失敗し、その上錦川(注:ママ。錦州?)占領のため出動した部隊は参謀総長の命令で、進撃途上遼河の線で行動中止を命令されてしまつた。 (錦州は結局翌年一月に占領した)
 一方北の方はハルビン進撃を禁止されたので方向を少し変えて、チチハル方面へ出て、一寸きざみに、停戦ラインを破つてどうとう(注:ママ。とうとう?)十一月十九日にチチハルへ入城した。
 折角取つたチチハルであつたが又も参謀総長の命令で兵力を撤退させなくてはならぬ破目となつた。中央部が一番心配していたのはソ連の動向で北満に手を出すのは危くて見ておられないと云うことだつたらしく、とうとう二宮参謀次長が天皇から大権の一部委任を受けて臨時参謀本部委任命令などというのを持つて来て、圧えようとした位であつた。
 こうして我々は事変の進行のために計り知れぬ苦労を重ねたが、十二月に、犬養内閣が出来て荒木陸相となつてからはようやく、満州問題がスムーム(注:ママ。スムーズ?)に運ぶようになつた。特に十月事件の陰謀(注:ママ。が?)政界に洩れて、軍に反対すると命が危いという恐怖感のためもう軍の行動をチェックしようとする意欲を政治家も失つてしまつたようであつた。満州事変をあの時期に起したのはタイミングとしては非常に良かつたと思う。内地の無定見な連中を説得するのに苦労した他、国際的に事変の進行が邪魔された事はなかつた。 (文責編集部)


 秦郁彦著「昭和史の謎を追う 上」(文春文庫、1999年)p70-74 から引用赤字は当サイト管理人によるものです。(注:秦郁彦氏は自虐史観の持ち主だと当サイト管理人は考えています。)
(前略)
 さて私事にわたって恐縮だが、私が昭和の戦争史に重要な役割を果した旧軍人からのヒアリング作業を始めたのは、東大教養学部二年在学中の一九五三年から翌年にかけてであった。約一年間にインタビューした人は延百人前後になるが、焦点のひとつは柳条湖事件の解明にあった。
 すでに関係者の多くが他界していて、会って話が聞けたのは花谷正、島本正一の両氏であったが、島本は多くを語らず、東京・代々木に住んでいた花谷(事件当時の奉天特務機関補佐官)に的をしぼった。伝説の関羽将軍とはこんな人だろうか、と思わせる豪快な軍人で、大いに語るが大風呂敷を広げるくせもあり、ヒアリングの取捨選択に苦心した。
 私はこの事件が関東軍の陰謀であることを確信していたので、要は計画と実行の細部をいかに聞き出すかであった。最初は口の重かった花谷も少しずつ語り始め、前後八回のヒアリングでほぼ全貌をつかんだ。みずから進んで語るのを好まない関係者も、花谷談の裏付けには応じてくれた。
 それから三年後の一九五六年秋、河出書房の月刊誌『知性』が別冊の「秘められた昭和史」を企画したとき、私は花谷談を整理してまとめ、補充ヒアリングと校閲を受けたのち、花谷正の名前で「満州事変はこうして計画された」を発表した。柳条湖事件の核心部分が活字で公表されたのは、この花谷手記が最初で、当時かなりの反響が出たと記憶する。
 花谷元中将が、この手記で明らかにした要点は次のようなものであった。
(1)事件の謀議に直接関わったのは、花谷のほか板垣、石原、今田新太郎大尉(張学良軍事顧問補佐官)、川島正大尉、河本末守中尉、三谷清憲兵少佐(奉天憲兵分隊長)、独立守備隊の小野正雄大尉、歩兵二九連隊の児島正範少佐、名倉栞少佐、他に補助的役割を分担した者に河本大作予備大佐、甘粕(あまかす)正彦元大尉、和田勁予備中尉のほか数人の浪人がいた。
(2)軍中央部の建川少将、重藤大佐、永田大佐、橋本中佐ら、朝鮮軍の神田中佐は事前に大体の構想を知らされ、支援を約束していた。
(3)「留め男」の建川少将訪満を知らされ、九月十五日の夜半に謀議者たちが特務機関で会合した席で、くりあげ決行論(今田)と中止延期論(花谷)が対立し、エンピツをころがすクジで中止と決めたが、決行論者の説得で十八日決行に再転した。
(4)建川は奉天到着までに以上の経過を報告され、了解を与えていた。
(5)爆薬は今田が調達し、川島の指揮下に河本中尉が自身で爆破作業を担当した。
 この花谷証言がほぼ正確であったことは一九五八年に三谷清、一九六二年に川島正からのヒアリングによって確認され、その成果は、一九六三年に刊行された日本国際政治学会編『太平洋戦争への道』(全八巻、朝日新聞社)第一巻に紹介された。
爆破現場からの証言
 その後久しく柳条湖事件に関する重要な新史実は出ないままに十数年が過ぎたが、一九七九年から私は今まで盲点となっていた満鉄の保線関係者や、河本中尉と同行した兵士を探し出して、爆破工作の細部を復元してみようと思いたった。そして間もなく、満鉄会と独立守備歩兵第二大隊第三中隊戦友会を通じて何人かの生き証人が見つかった。そのなかから核心に触れた証言をいくつか拾ってみよう。
 証言その一 見津(みつ)実上等兵(東京都在住)
 九月十八日の夕方、川島中隊長の官舎へ呼ばれ、行ってみると、中隊長夫妻、河本中尉、それに見知らぬ大尉が応接間にいて「今田大尉だ」と紹介された。今田が「そのトランクを開けてみよ」と言った。小型の布製トランクの中に中国製らしい爆薬が約二十個入っていた。川島から「これから中隊は演習へ行くが、お前は今田大尉と同行せよ。誰とも話すな」と厳命され、ワインで乾杯したのでタダゴトではないと予感した。
 河本中尉が何人かをつれて先発、薄暗くなって今田と私は北大営とレールの中間点に伏せの形で潜伏していた。三十分後にバーンと爆発音が三回聞こえ、火柱が西南方に見えた。すぐ中隊主力が到着し、北大営に攻撃を開始した。戦闘が始まって少しのち兵営内へ入ると、今田と川島が「もう大丈夫だよ」と話しあっていた。そのようすから日本側の謀略だな、と見当をつけた。その後、特務機関の二階に約一カ月軟禁されたのち、中隊へ帰った。
 証言その二 今野(こんの)]五郎(いなごろう)上等兵(宮城県在住)
 私はラッパ卒兼伝令として斎藤金市一等兵(故人)とともに、九月十八日夜河本中尉と行動をともにした。線路の西側を今野、東側を斎藤、河本の順で南下して行った。問題の地点まで来ると、河本が我々に第十四列車(急行)を今からひっくりかえすと告げ、列車が近づくのを確かめたのち、一人で図囊(ずのう)から取り出した爆薬をレールに装置した。
 その間我々二人は五メートルぐらい離れ、反対側に向い警戒するよう命じられたが、「伏せろ」と河本が叫んだので伏せた。ところが爆発の直後に列車は無事に通過してしまった。あの地点はカーブの外側なので、車輪が浮いたのではあるまいか。河本から「中国軍が鉄道を爆破したと報告せよ」と命じられ、私は柳条湖分遣隊へ、斎藤は川島中隊長へ伝令に走った。
 証言その三 松尾正二奉天保線区長(東京都在住)
 九月十八日朝に、関東軍から有事に備え、いつでもモーターカーが出せるように準備しておけ、と指示が来ていた。夜は自宅に帰っていたが、線路方(がた)から事件が起きたと電話があり出勤、まず爆破現場を検分して被害の状況を調べる必要があるので、三宅保線助役(故人)らがモーターカーで出発したが、軍が近づけさせない。翌朝、切断されたレールを見た。
 断面に重いもので叩かれた痕(あと)があり、列車がこの部分を通過した時に生じた傷、と判断した。切れた長さは一八〜二〇センチで、最弱点である外側カーブの継ぎ目だが、よく脱線しなかったと話しあった。修理作業は一時間もかからなかった。
 証言その四 前田喬奉天駅助役
 問題の上り第十四列車は予定どおり奉天駅についた。この列車に満鉄の木村理事が乗って大連へ向うので、当直の私がプラットホームへ見送りに出ているところへ、軍から電話が入り鉄道爆破を伝えられた。


 石原莞爾生誕百年祭実行委員会編「永久平和への道 いま、なぜ石原莞爾か」(原書房、1988年)に収められた「4 満州事変は侵略戦争のはじまりか 河野信著」から2か所を引用します。
(引用:石原莞爾生誕百年祭実行委員会編「永久平和への道 いま、なぜ石原莞爾か」 p99 )
 中国革命の父、孫文は「滅満興漢」を旗印にして清朝を倒し、一九一二年(明治四五年)中華民国の成立宣言を行った。その孫文は一九一三年(大正二年)の春、日本を訪れ桂首相と対談した折、満州が日本の生命線であることを認め、ここに日中協力の別天地を作ることを表明した。
 満州事変が始まる頃、満州にはおよそ三千万人の人びとが住んでいた。その大部分は中国本土から移住した漢民族であったが、この外、満州族、蒙古族、朝鮮族、白系ロシヤ人、日本人が混住していた。日本人は約二十三万人で南満州鉄道沿線および関東州に主として集中していた。
:当サイト管理人がウィキペディアで調べたところでは、以下のとおり。
 上記引用文にある1913年春の時点で孫文は、中華民国臨時大総統の地位はすでに前年に退いており、国民党(中国国民党とは異なる。)の理事長であったとみられる。形式上は党のトップだが、実権は理事長代理の宋教仁が握っていたらしい。その宋教仁は、1913年3月に袁世凱によって暗殺されている。
 孫文は1912年4月1日に中華民国の臨時大総統の地位を退き、袁世凱に委譲した。その後、国会開設に備えて幾つかの党を糾合して1912年8月に国民党(中国国民党とは異なる。)が結成された。この国民党は、理事9名を置き、理事長は孫文、理事長代理は宋教仁で、宋教仁が実権を握った。国民党は、1912年12月から1913年1月にかけての選挙で大勝。これに深刻な危機感を覚えた袁世凱は、1913年3月に宋教仁を暗殺した。このような袁世凱の独裁化に対抗すべく、国民党の急進派も参加して第二革命(軍事蜂起。1913年7月-9月)が起こったが失敗。1913年11月4日に袁世凱は国民党に解散命令を出す。その後袁世凱は、1914年に議会を解散、1915年に帝政を復活、反袁・反帝政の第三革命が展開され、翌1916年に袁世凱は病死する。
LINK 孫文 - Wikipedia
LINK 袁世凱 - Wikipedia
LINK 宋教仁 - Wikipedia
LINK 愛新覚羅溥儀 - Wikipedia
LINK 中華民国大総統 - Wikipedia
LINK 国民党 (宋教仁) - Wikipedia
LINK 中国国民党 - Wikipedia
LINK 第二革命 - Wikipedia
 また、関東州は、日露戦争により日本が獲得した旅順・大連地域の日本租借地の呼び名。日本の関東軍は、満州事変より前の時点では、この関東州の守備と南満州鉄道附属地の警備を行っていた。
LINK 関東州 - Wikipedia
LINK 関東軍 - Wikipedia  )
(引用:石原莞爾生誕百年祭実行委員会編「永久平和への道 いま、なぜ石原莞爾か」 p99-102 )
  苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)・張軍閥
 清朝が倒れ、中華民国が成立したが、全中国統一への道はなお険しかった。孫文の後継者と見なされていた蒋介石、満州を基盤として勢力を増大した張学良、ソビエトの援助を受けて隠然たる力をもつ中国共産党閻錫山(えんしゃくざん)、憑玉祥(ふうぎょくしょう)、李宗仁等の地方軍閥が三つ巴、四つ巴になってせりあっていた。この経過を述べると非常に複雑なので省略するが、満州事変発生当時は、蒋介石の中国国民党が中心になり、南京に中華民国政府を樹立するまでになっていた。
 蒋介石は中国の実権をほぼ握るとともに、中国にある外国権益の返還を性急に要求しはじめた。国家の統一を図るために国民の眼を外国に向けさせるのは指導者の使う常套手段であり、失権失地の回復は独立を果たそうとする民族の本能的欲求でもあった。
 当時の満州を支配していたのは、張作霖の長子張学良であった。張学良は昭和三年六月、父作霖の爆死後「易幟(えきし)」を行なった。易幟というのは自分の旗をおろし、相手陣営の旗を掲げることで、相手方に忠誠を誓うことを意味する。その相手方というのは長い間中国の覇権をともに争ってきた蒋介石が指導する中国国民党であった。
 国民党、中華民国政府の外交方針は「失権失地回復」であった。易幟した張学良は、この政策を直ちに実行に移した。その計画の第一は南満州鉄道を経営的に枯渇自滅させるための満鉄包囲鉄道計画、第二に日本人、朝鮮人を追い出すための日本人事業ならびに居住の禁止、朝鮮人農民の圧迫、第三に満鉄付属地の経済封鎖であった。
 さて、満鉄包囲鉄道計画はたちまち満鉄の経営を悪化させた。昭和五年十一月以降赤字がつづき、ついに満鉄は社員三〇〇〇人解雇、昇給一ケ年停止、新規事業いっさい中止、枕木補修一ケ年中止、破損貨車三〇〇〇両の補修中止に踏み切らざるを得なくなった。この他日本商店への妨害、婦女子の凌辱、暴行、学校児童の迫害などがひんぴんと起こるようになってきた。
 張政権のためにひどい目に会っていたのは日本人のみではなかった。張政権は自己の政権を維持発展させるために大軍(約五〇万)を養い、長期消耗戦争を続け、その軍費を三〇〇〇万民衆に負担させていた。
 奉天省長王永江は張作霖を諫めて次のように言っている。
「軍事費四千一百万元、これに対して歳入は僅か二千三百万元に過ぎず、軍事の一半にも達せず……、奉天省の民政は行わるるはずもなく、財政は破産の一途をたどるのみ、しかも連年の兵戦は苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)を重ね、もはや、増税を施すべき算なし……」(山口重次「満州帝国」)
 諫めを容れられなかった王永江は職を辞して故郷に帰ってしまった。王永江の流れを汲む人びとは「文治(ぶんじ)派」と称し、後に一斉に満州建国に立ち上がったのである。
 重税をこれ以上課せられなくなった張政権は、軍費を調達するために、かわって奉票という名の紙幣を濫発しはじめた。この結果、奉票の価値は日に日に下落し、一九一七年(大正六年)に日本円百円にたいして、七十五元だった奉票の価値は、一九三〇年(昭和五年)には実に一万一千三百二十元に下落してしまった。
 治安状況が悪いために、馬賊が横行し、人びとは常に生命財産の不安におびえていなければならなかった。官吏や裁判官の腐敗もはなはだしく、賄賂が日常化していた。元京大教授滝川政治郎氏によれば、
「建国前の満州においては行き倒れを見ること決して稀ではなかった。特に冬季には乞食の徒の街路に凍死して、死屍を横たえる者多く、夜間道を往く者は、注意しないとこれにつまづいた」(滝川政治郎「満州建国十年史」)
 当時の満州三〇〇〇万の民衆は息をつくのがやっとであった。張政権は一般民衆から深い怨みと反抗を受けていたのである。
 満州事変を日本軍閥の計画的侵略と断じている論者は、この張政権の暴政についてはほとんど言及していない。これははなはだしい片手落ちと言わなければならない。時代背景をキチンと認識して初めて真実が現れるのである。
 日本人が、その民族的優越感により犯した数々の罪については、充分に反省しなければならないが、この罪を強調しようとするあまり、事変前の張政権の暴状を無視する態度はフェアーではない。


 歴史科学協議会 中村尚美・君島和彦・平田哲夫 編『史料 日本近現代史U 大日本帝国の軌跡 ――大正デモクラシー〜敗戦』(三省堂、1985年) p121-123 から引用(注:この文章は、角田順 編『《明治百年史叢書》 石原莞爾資料 ―国防論策篇―』(原書房、1967年) p76-79 からの引用であるようです。)
八二 石原莞爾「満蒙問題私見」
一九三一年五月
     要  旨
一 満蒙ノ価値
  政治的 国防上ノ拠点
      朝鮮統治支那指導ノ根拠
  経済的 刻下ノ急ヲ救フニ足ル
二 満蒙問題ノ解決
  解決ノ唯一方策ハ之ヲ我領土トナスニアリ
  之カ為ニハ其正義ナルコト及之ヲ実行スルノ力アルヲ条件トス
三 解決ノ時期
  国内ノ改造ヲ先トスルヨリモ満蒙問題ノ解決ヲ先トスルヲ有利トス
四 解決ノ動機
  国家的   正々堂々
  軍部主導  謀略ニ依リ機会ノ作製
  関東軍主動 好機ニ乗ス
五 陸軍当面ノ急務
  解決方策ノ確認
  戦争計画ノ策定
  中心力ノ成形

   第一 満蒙ノ価値
 欧州大戦ニヨリ五個ノ超大国ヲ成形セントシツツアル世界ハ更ニ進テ結局一ノ体系ニ帰スヘク其統制ノ中心ハ西洋ノ代表タル米国ト東洋ノ選手タル日本間ノ争覇戦ニ依リ決定セラルヘシ
 即チ我国ハ速ニ東洋ノ選手タルヘキ資格ヲ獲得スルヲ以テ国策ノ根本義トナササルヘカラス
 現下ノ不況ヲ打開シ東洋ノ選手権ヲ獲得スル為ニハ速ニ我勢力圏ヲ所要ノ範囲ニ拡張スルヲ要ス 満蒙ハ我人口問題解決地ニ適セス資源亦大日本ノ為ニハ十分ナラサルモ次ノ諸点ヨリ観テ所謂満蒙問題ノ解決ハ刻下第一ノ急務ト云ハサルヘカラス(板垣大佐「軍事上ヨリ観タル満蒙ニ就テ」参照)
 一 政治的価値
 1 国家カ世界的雄飛ヲナス為ニハ国防的地位ノ良好ナルコト最モ重大ナル要件ナリ 独乙ノ今日ハ其国防的地位ノ不安定ニヨルコト多ク十九世紀ニ於ケル英国ノ覇業ハ有利ナル国防状態ニ負フコト大ナリ 米国海軍ノ発展ハ英帝国ノ国防ヲ甚シク危殆ニ陥レ米国ノ経済力ノ増進ト共ニ西洋民族ノ選手権ハ正ニ米国ノ手ニ帰シツツアリ
 我国ハ北露国ノ侵入ニ対スルト共ニ南米英ノ海軍力ニ対セサルヘカラス 然ルニ呼倫貝爾(当サイト管理人による注:呼倫貝爾は内モンゴルの都市ホロンバイル(フルンボイル)を指すものと思われる。)興安嶺ノ地帯ハ戦略上特ニ重要ナル価値ヲ有シ我国ニシテ完全ニ北満地方ヲ其勢力下ニ置クニ於テハ露国ノ東進ハ極メテ困難トナリ満蒙ノ力ノミヲ以テ之ヲ拒止スルコト困難ナラス 即チ我国ハ此拠ニ初メテ北方ニ対スル負担ヨリ免レ其国策ノ命スル所ニ依リ或ハ支那本部ニ或ハ南洋ニ向ヒ勇敢ニ其発展ヲ企図スルヲ得ヘシ
 満蒙ハ正シク我国運発展ノ為最モ重要ナル戦略拠点ナリ
 2 朝鮮ノ統治ハ満蒙ヲ我勢力下ニ置クコトニヨリ初メテ安定スヘシ
 3 我国ニシテ実力ヲ以テ満蒙問題ヲ解決シ断乎タル決意ヲ示スニ於テハ支那本部ニ対シ指導ノ位置ニ立チ其統一ト安定ヲ促進シ東洋ノ平和ヲ確保スルヲ得ヘシ
 二 経済的価値
 1 満蒙ノ農産ハ我国民ノ糧食問題ヲ解決スルニ足ル
 2 鞍山ノ鉄、撫順ノ石炭等ハ現下ニ於ケル我重工業ノ基礎ヲ確立スルニ足ル
 3 満蒙ニ於ケル各種企業ハ我国現在ノ有識失業者ヲ救ヒ不況ヲ打開スルヲ得ヘシ 要スルニ満蒙ノ資源ハ我ヲシテ東洋ノ選手タラシムルニ足ラサルモ刻下ノ急ヲ救ヒ大飛躍ノ素地ヲ造ルニ十分ナリ
   第二 満蒙問題ノ解決
 単ナル経済的発展モ老獪極マリナキ支那政治業者ノ下ニハ遂ニ今日以上多クヲ期待シ難キハ二十五年(当サイト管理人による注:25年前というと1906年に当たるが、日露戦争で権益を獲得して南満州鉄道株式会社(満鉄)が設立された年が1906年である。)歴史ノ明示スル処殊ニ露国ニ対スル東洋ノ保護者トシテ国防ヲ安定セシムル為満蒙問題ノ解決策ハ満蒙ヲ我領土トスル以外絶対ニ途ナキコトヲ肝銘スルヲ要ス
 而シテ解決策ノ為ニハ次ノ二件ヲ必要トス
 (1) 満蒙ヲ我領土トナスコトハ正義ナルコト
 (2) 我国ハ之ヲ決行スル実力ヲ有スルコト
 漢民族社会モ漸ク資本主義経済ニ進マントシツツアルヲ以テ我国モ満蒙ニ於ケル政治軍事的施設ヲ撤回シ漢民族ノ革命ト共ニ我経済的発展ヲナスヘシトノ議論ハ固ヨリ傾聴検討ヲ要スルモノナルヘシト雖吾人ノ直観スル所ニヨレハ支那人カ果シテ近代国家ヲ造リ得ルヤ頗ル疑問ニシテ寧ロ我国ノ治安維持ノ下ニ漢民族ノ自然的発展ヲ期スルヲ彼等ノ為幸福ナルヲ確信スルモノナリ
 在満三千万民衆ノ共同ノ敵タル軍閥官僚ヲ打倒スルハ我日本国民ニ与ヘラレタル使命ナリ 又我国ノ満蒙統治ハ支那本土ノ統一ヲ招来スヘク(当サイト管理人による注:当時の中国は、1928年に北伐が完了したものの、政府軍は軍閥の寄せ集めで、中原大戦など内紛が1932年まで続いた。(出典:LINK 中原大戦 - Wikipedia))欧米諸国ノ支那ニ対スル経済発展ノ為ニモ最モ歓迎スヘキ所ナリ 然レ共嫉妬心ニ強キ欧米人ハ必スヤ悪意ヲ以テ我ヲ迎フヘク先ツ米国 状況ニヨリテハ露英ノ武力的反対ヲ予期セサルヘカラス 支那問題満蒙問題ハ対支問題ニ非スシテ対米問題ナリ 此敵ヲ撃破スル覚悟ナクシテ此問題ヲ解決セントスルハ木ニ拠リテ魚ヲ求ムルノ類ナリ
 而シテ此ノ如キ戦争ハ一見我国ノ為極メテ困難ナルカ如キモ東亜ノ兵要地理的関係ヲ考察スルニ必スシモ然ラス 即チ
 1 北満ヨリ撤退シアル露国ハ我ニシテ同地方ヲ領有スルニ於テハ有力ナル攻勢ヲトルコト頗ル困難ナリ
 2 海軍ヲ以テ我国ヲ屈服セシムルコトハ難事中ノ至難事ナリ
 3 経済上ヨリ戦争ヲ悲観スルモノ多キモ此戦争ハ戦費ヲ要スルコト少ク概シテ之ヲ戦場ニ求メ得ルヲ以テ財政的ニハ何等恐ルルニ足ラサルノミナラス国民経済ニ於テモ止ムナキ場合ニ於テハ本国及占領地ヲ範囲トスル計画経済ヲ断行スヘク経済界ノ一時的大動揺ハ固ヨリ免ルル能ハストスルモ此苦境ヲ打開シテ日本ハ初メテ先進工業国ノ水準ニ躍進スルヲ得ヘシ
 此戦争ハ露国ノ復興及米国海軍力ノ増加前即チ遅クモ一九三六年以前ニ行ハルルヲ有利トス 而シテ戦争ハ相当長期ニ渉ルヘク国家ハ予メ戦争計画ヲ策定スルコト極メテ肝要ナリ
   第三 解決ノ時期
 我国ノ現状ハ戦争ニ当リ挙国一致ヲ望ミ難キヲ憂慮セシムルニ十分ナリ 為ニ先ツ国内ノ改造ヲ第一トスルハ一見極メテ合理的ナルカ如キモ所謂内部改造亦挙国一致之ヲ行フコト至難ニシテ政治的安定ハ相当年月ヲ要スル恐尠カラス 又仮ニ政治的安定ヲ得タリトスルモ経済組織ノ改変ニ関スル詳細適切ナル計画確立シアラサルニ於テハ我経済力ノ一時的大低下ヲ覚悟スルヲ要スルコト露国革命ニ就テ見ルモ明ナリ
 若シ戦争計画確立シ資本家ヲシテ我勝利ヲ信セシメ得ル時ハ現在政権ヲ駆リ積極的方針ヲ執ラシムルコト決シテ不可能ニアラス 殊ニ戦争初期ニ於ケル軍事的成功ハ民心ヲ沸騰団結セシムルコトハ歴史ノ示ス所ナリ
 戦争ハ必ス景気ヲ好転セシムヘク爾後戦争長期ニ亘リ経済上ノ困難甚シキニ至ラントスル時ハ戒厳令下ニ於テ各種ノ改革ヲ行フヘク平時ニ於ケル所謂内部改造ニ比シ遥ニ自然的ニ之ヲ実行スルヲ得ヘシ 故ニ若シ政治的安定ヲ確信シ得ヘク且改造ニ関スル具体的計画確立シ而モ一九三六年ヲ解決目標トセサルニ於テハ内部改造ヲ先ニスル必スシモ不可ト称スヘカラサルモ我国情ハ寧ロ速ニ国家ヲ駆リテ対外発展ニ突進セシメ途中状況ニヨリ国内ノ改造ヲ断行スルヲ適当トス
   第四 解決ノ動機
 国家カ満蒙問題ノ真価ヲ正当ニ判断シ其解決カ正義ニシテ我国ノ業務ナルコトヲ信シ且戦争計画確定スルニ於テハ其動機ハ問フ所ニアラス 期日定メ彼ノ日韓合併ノ要領ニヨリ満蒙併合ヲ中外ニ宣言スルヲ以テ足レリトス
 然レ共国家ノ状況之レヲ望ミ難キ場合ニモ若シ軍部ニシテ団結シ戦争計画ノ大綱ヲ樹テ得ルニ於テハ謀略ニヨリ機会ヲ作製シ軍部主動トナリ国家ヲ強引スルコト必スシモ困難ニアラス
 若シ又好機来ルニ於テハ関東軍ノ主動的行動ニ依リ回天ノ偉業ヲナシ得ル望絶無ト称シ難シ
   第五 陸軍当面ノ急務
 1 満蒙問題ノ解決トハ之ヲ我領土トナスコトナリトノ確信ヲ徹底スルコト
 2 戦争計画ハ政府及軍部協力策定スヘキモノナルモ一日ヲ空フスル能ハサルヲ以テ率先之ニ当リ速ニ成案ヲ得ルコト
 3 中心力ノ成形
皇族殿下ノ御力ヲ仰キ奉ルニアラサレハ至難ナリ
(石原莞爾『国防論策』)

 
 角田順 編『《明治百年史叢書》 石原莞爾資料 ―国防論策篇―』(原書房、1967年) p85 から引用(注:1931年(昭和6年)9月18日に柳条湖事件が起きた4日後の日付となっています。)
     一五 満蒙問題解決策案(六年九月二十二日 関東軍参謀部)
〔同日関東軍で三宅光治参謀長はじめ、土肥原賢二・板垣征四郎両大佐、石原莞爾中佐、片倉衷大尉らの幕僚が鳩首協議の上作成したもの〕
 大臣総長宛
   第一  方針
 我国ノ支持ヲ受ケ東北四省及蒙古ヲ領域トセル宣統帝ヲ頭首トスル支那政権ヲ樹立シ在満蒙各民族ノ楽土タラシム
   第二  要領
一 国防外交ハ新政権ノ委嘱ニヨリ日本帝国ニ於テ掌理シ交通通信ノ主ナルモノハ之ヲ管理ス 内政其他ニ関シテハ新政権自ラ統治ス
二 頭首及我帝国ニ於テ国防外交等ニ要スル経費ハ新政権ニ於テ負担ス
三 地方治安維持ニ任スル為概ネ左ノ人員ヲ起用シテ鎮守使トス
   X 洽(吉林地方)
   張海鵬(黒竜洮索地方)
   湯玉麟(又ハ張宗昌)(熱河地方)
   干芷山(東辺道地方)
   張景恵(哈爾賓地方)
  (右ハ従来宣統帝派ニシテ当軍ト通信機関ヲ有ス)
四 地方行政ハ省政府ニ依リ新政権県長ヲ任命シテ行フ
 (本意見ハ九月十九日ノ満蒙占領意見中央ノ顧ル所トナラス且建川少将〔美次・参謀本部作戦部長〕スラ全然不同意ニテ到底其行ハレサルヲ知リ万コクノ涙ヲ呑ンテ満蒙独立国案ニ後退シ最後ノ陣地トナシタルモノナルモ好機再ヒ来リテ遂ニ満蒙領土論ノ実現スル日アルヘキヲ期スルモノナリ〔石原註記〕)


 角田順 編『《明治百年史叢書》 石原莞爾資料 ―国防論策篇―』(原書房、1967年) p90-92 から引用(注:柳条湖事件の11年後。石原莞爾の談話を記者の増川喜久男が筆記したものらしい。当時の心情が簡潔にまとまっている。)なお、引用文中に挿入した(注)は、当サイト管理人によるものです。また、赤字も、当サイト管理人が、重要と考える部分に施しました。
     一八 満洲建国前夜の心境(昭和十七年)
 支那問題に対する私共の関心は、幼年学校時代からのものであった。中国の新生と日支の心からの提携協定を念願する素朴な気持から、私共は只管中国の革命に対して大きな希望を抱いていたものである。従って明治四十四年、当時の清国の宣統三年に彼の武昌兵変が起り第一革命が成功した時には、私は丁度朝鮮の守備隊に居つたのであつたが、かねてからの中国の新生に対する念願と革命後の中国の前途に対する希望の余り附近にある山の上に当時の自分の教へて居た兵隊と共に登り、万歳を叫んで新しい中国の前途に心から慶びを示したものである。
 然し此の喜びは束の間のものであつた。孫文は袁世凱と妥協する、袁世凱は軍閥の地金を現して革命の理想を蹂躙して行く、袁が死んでも結局軍閥と軍閥との抗争で容易に革命の精神は行はれない。この状態を見て私共は中国人の政治的能力に疑を懐かざるを得ない様になつた。漢民族は高い文化を持つては居るが近代的国家を建設するのは不可能ではないか、と言ふ気持になつて行つたのである。満州事変の前迄此の懐疑は続き、その気持の上から私共は当時満蒙問題解決の唯一の方策として満蒙占領論を唱へ、漢民族は自身政治能力を有せざるが故に日本の満蒙領有は日本の存立上の必要のみならず中国人自身の幸福である、と強硬に主張して居たのであつた。
 然し此の場合に於ても満蒙占領後の成果如何は日本帝国百年の大計に大きな影響を及ぼすことのあることを顧みて、その統治の方針は、大体に於て最高政治を抑へる以外は、眼前の小事に拘泥して日本人の保護に偏重することなく各民族に各々その特異性を充分に発揮せしめて、日鮮満漢蒙等各民族協和し共に共存共栄の実を挙げることを考へて居つたのである。現に満州に当時あつた満州青年聯盟の昭和六年春の大会決議には「諸民族の協和を期す」と言ふ文字を使つて居るのは、此の気持が在満の青年層にも普遍して居て期せずして現れ出たものに他ならぬと考へられるのである。
 此の満蒙占領論は然し実際に満州事変が起り又実際に満蒙の統治が現実の問題となって来てから、却つて反対に満蒙の独立論に変つて行つた。
 その第一の理由は、中国人の政治能力に対する従来の懐疑が再び中国人にも政治の能力ありとする見方への変り方であつた。当時中国は蒋介石を中心とする国内の統一運動が国民党の組織をその基盤として非常な勢で延びて行つた。生活の根本的な改善からはじまって国民の生活と国家の政治、経済等の直接的な結びつきに依る革新運動は、従来の軍閥のやり方と全然違つて新しい息吹きを中国に与へる様に思はれたのである。
 中国人自身に依る中国の革新政治は可能であると言ふ従来の懐疑からの再出発の気持は、更に満州事変の最中に於ける満州人の有力者である人々の日本軍に対する積極的な協力と軍閥打倒の激しい気持、そしてその気持から出た献身的な努力更に政治的な才幹の発揮を眼のあたり見て一層違つて来たのである。
 在満三千万民衆の共同の敵である軍閥官僚を打倒することは日本に与へられた使命であつた。此の使命を正当に理解し此の為に日本軍と真に協力する在満漢民族其の他を見、更にその政治能力を見るに於て、私共は満蒙占領論から独立建国論に転じたのである。何故ならば支那問題、満蒙問題は単に対支那問題ではなく、実に軍閥官僚を操り亜細亜を塗炭の苦に呻吟せしめて居るものは欧米の覇道主義であり、対支問題は対米英問題である以上、此敵を撃砕する覚悟がなくて此問題を解決することは木に拠り魚を求むるの類ひであると思つて居たが為に他ならない。
 斯くて私共は満蒙に新生命を与へ、満州人の衷心からの要望である新国家の建設によって、先づ満州の地に日本人、中国人の提携の見本、民族協和に依る本当の王道楽土の建設の可能性を信じ、従来の占領論を放擲して新国家の独立を主張する迄の転向となつたのであつた。
 勿論此の間の経緯は幾多の迂余曲折を経なければならなかつたが、然し私共としては常に陸下(注:ママ。陛下?。)の大御心を体し皇道に立脚して誤りの無い事変処理を夙夜念じたのである。当時私共の当面の敵は支那軍閥であつた。然し此敵と戦ひ之を撃破し乍ら、私共は絶えず次の国際的な相手を顧慮し此欧米覇道勢力の完全な覆滅の為の物心両面の備を保持して居らねばならなかつた。世界最終戦を予想しての八紘一宇の為の次の階梯への準備である。
 更に日本国内の維新改革も重大な問題であつた。満州事変は当時の日本国内の政治、経済思想の行詰りと之が維新の要求とにも大きな関聯を有して居たのである。昭和維新の先駆としての満州事変の性格である。
 之等の点に対する真剣な反省、そして陛下の大御心を衷心より奉戴せんとする気持は、支那人の政治能力に対する見直しと共に、必ず此民族と共に相率ゐて共同の敵に対し共同の戦線に立つて戦ひ得るという確信に到達したのである。
 形式の上で言へば占領論の放棄は消極面への転化の様であるが、実際には却つて反対に大きな前進であり、積極的な面への飛躍的な躍進であつたのである。此処に私共の満州建国に対する異常な関心、情熱が今以て激しく躍動して居る所以が存する。民族協和への確信、漢民族に対する信頼、之が満州建国への大きな基礎となつて居るのである。相手の民族に政治的能力が無いのであるならばいざ知らず、之が能力を認め且信頼を置く以上、占領して之を統治する必要はない。新国家に於て徹底的に漢民族はじめ他民族の才能を発揮せしめ、日本人も新国家の建設に裸一貫となつて参加して、此の建設の過程に本当に日本の 天皇の御稜威をしらしめることこそ、日本を信頼せしめ日本人に限りない愛着を持たしめる唯一最良の道であると思うたのである。日支提携の中核としての又紐帯としての満州の王道楽土を考へた私共の道は、今東亜の問題として東亜聯盟結成への過程に進み、将にその前後にある。
 民族協和は日本人の力を押しつけるものではない。誠心を示し、互の誠と愛に生きるのである。満州占領論の放棄は自己の力に対する不信ではなく、今日東亜聯盟と言ふ言葉で主張して居る次の構想を予期してなるべく多くの民族、なるべく多くの国民が真に協同して行くと言ふ積極的な第一歩であり、八紘一宇と言ふ肇国の目標に向つての現実的な一歩前進である。
 私は此の様にして昭和六年の暮に、それ迄頑強な迄に主張しつづけて居た満蒙占領論から完全に転向したのであつた。そして偶々翌年の昭和七年一月十一日、本誌転載の朝日新聞主催に依る「日支名士の座談会」が奉天のヤマトホテルで開かれたので私は同志に私の此転向した気持を伝へたいと思つて、本来此種の会合に出ることは私の好むところではなかつたが、無理に出席したわけである。満州国独立を公開の席で口にした最初と言ふ意味で私にとつては印象深い記念すべき座談会である。
 建国以来今年三月一日を以て満州国も十年の歳月を閲する。満州国の統治、経営に就ては世上多くの論議を聞く。然し私としては事変当時既に今日の大東亜戦争として現はれて居る対欧米覇道主義国との戦争を予想し、その故にこそ東亜民族の協和に依る満州国建設と、此精神的中核に依る東亜聯盟を企図し、東亜各民族共同しての対米英戦の勝利を祈念したのであつた。
 満州に於ける為政者、特にその中堅者である日本人が私共の考へをも一度検討せられて、一刻も早く真の王道楽土の実現を成して頂くことを心から祈つて已まないものである。
  ――本稿は石原莞爾閣下の談話を筆記したものである。従つて文責は記者にあることを附記する――(増川喜久男)





【参考ページ】
1905年 日米間でハリマン事件(南満州鉄道の経営権問題)
1931年 柳条湖事件(満州事変へ)
「満州事変」に関する資料集(1) 〜このページ
「満州事変」に関する資料集(2)
「満州事変」に関する資料集(3)
1936年 中国で西安事件(第2次国共合作へ。蒋介石とスターリンが提携へ。)
1937年 廬溝橋事件(支那事変へ)
「支那事変」に関する資料集(1)
「支那事変」に関する資料集(2)
「支那事変」に関する資料集(3)
「支那事変」に関する資料集(4)


【LINK】
石原莞爾
LINK 石原莞爾 - Wikipedia
LINK クリック20世紀石原 莞爾
LINK ようこそDr.町田のホームページへマイエッセイのページ石原莞爾再考
LINK 青空文庫作家別作品リスト:石原 莞爾石原莞爾 最終戦争論
LINK 青空文庫作家別作品リスト:石原 莞爾石原莞爾 新日本の進路 石原莞爾將軍の遺書
LINK 青空文庫作家別作品リスト:石原 莞爾石原莞爾 戦争史大観
花谷正
LINK 花谷正 - Wikipedia
LINK 陸海軍けんか列伝カテゴリー:花谷正陸軍中将 〜特に、「 112.花谷正陸軍中将(2)
森島守人 著「陰謀・暗殺・軍刀 一外交官の回想」岩波新書、1950年(1991年)
LINK しいまんづ雑記旧録今田新太郎も気になる。51 『秘められた昭和史』
LINK しいまんづ雑記旧録『「挫折」の昭和史』に出てくる花谷正
秦郁彦
LINK 秦郁彦 - Wikipedia




参考文献
「東亜の父 石原莞爾」高木清寿著、たまいらぼ(発行者:玉井禮一郎)、1985年(注:この本は復刻版で、元本は錦文書院 1954年です。)
「永久平和への道 いま、なぜ石原莞爾か」石原莞爾生誕百年祭実行委員会編、原書房、1988年
LINK 青空文庫作家別作品リスト:石原 莞爾石原莞爾 最終戦争論
「昭和史の謎を追う 上」秦郁彦著、文春文庫、1999年(注:秦郁彦氏は自虐史観の持ち主だと当サイト管理人は考えています。)
「史料 日本近現代史U 大日本帝国の軌跡 ――大正デモクラシー〜敗戦」歴史科学協議会 中村尚美・君島和彦・平田哲夫 編、三省堂、1985年
「《明治百年史叢書》 石原莞爾資料 ―国防論策篇―」角田順 編、原書房、1967年

更新 2014/1/11

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